2017年11月6日月曜日

泥仏の開眼供養2

清水公照師の絵の一部
   2日の記事の主人公加藤住職を含む何人かが集まったところ、あの記事の「ネットによる泥仏開眼供養と写真」について大いに話が盛り上がった。
 ちなみに写真については、きちんとしたお勤めを終えた後、私のために何枚も自動撮影をしてくれたそうだ。
 「これが流行ったらお布施が入らない」というような笑い話も含め、みんなが住職に「ようやってくれた」とお礼のような称賛の声を浴びせかけた。
 住職も「お寺に親しんでもらえる一歩になるなら皆んな引き受けるで」と応えてくれた。
 少し無責任な気軽な日常会話だったがそういう風に盛り上がった。

 お寺に関しては私はある意味門外漢なので思い付きのようなことを言うのだが、今般のネットの供養はお寺のイメージを変える気がする。
 私自身はお念仏の文化で育ったせいか、お寺というか仏壇というか、それらにはどうしても陰気臭いイメージが拭えない。主観の話なのでご容赦!
 どうも仏教というと生きる指針というよりも亡き人を偲ぶイメージが濃く付きまとう。
 そのせいか地獄の話も地蔵和讃も好きではない。

 それに対して、各自が好きな仏像を持ち、形式的ではあるが仏らしく開眼の形をとり、それを大事にして日々感謝し真面目に生きようとするのは「前向き」な気もする。
 「何を言うか、だいたい仏教そのものが前向きなものだ」というご批判の言葉もあるだろうが、これは私の印象のことである。
 キリスト教会のゴスペルソングには現実生活への応援があるように感じるのだが、そんなパワーをお寺はどうしたら発揮できるのだろうか。私の言いたいことはここである。

 人生には悲しいこと辛いこともあるから、静かに祈る方々の邪魔にならない範囲で、お寺も明るく楽しい「人生力」を実感できる「ところ」になればいいなどと戯言を書いてみた次第だ。 
 今度会うときにはお供えぐらいは持参するつもり。

 少しだけ似たような話では、登録したお坊さんを葬儀会社が葬儀に「斡旋?」するような試行については新聞紙上でもどちらかというと否定的に論じられている。
 私のブログに度々登場した和道おっさんも強く否定されている。
 葬儀は単なるイベント、「事務処理」ではないんだと。
 その説は非常に真面目で原則的なものだと心から思う。
 だが私には、賛否両意見どちらも判るなあという気がして困っている。
 う~~む。

0 件のコメント:

コメントを投稿