2017年3月8日水曜日

歴史発掘

   3月7日に堺で郷土史・民衆史などを発掘している研究者たちによる泉昌山調御寺(ぢょうごじ)(明徳元年1390年創立)の調査に立ち会わせていただいた。
 さすが研究者だけあって古文書(文字)をすらすら読まれるのに感心したりしたが、持参された「堺岸和田寺院台帳(戦前)(戦後)」から、境内に「目神堂(目の神様のお堂)」があったことが判り、伝承で聞いていた「目の神さんのお寺」であったことが実証された。
 「神さんのお寺」というと奇異に感じられるかもしれないが、明治の神仏分離令以前は神仏習合が普通の姿であった。

 伝承では、さらに同寺には聖水の井戸があり、その聖水で目を洗うと眼病が快復すると聞いていたが、その聖水の井戸というのは今現在国道26号(国道310号、府道中央環状線と重複)の歩道上に残っている井戸枠(井戸枠は安政5年1858)だろう。「目の神さんのお堂」とも符牒が合う。
 話は少し寄り道するが、別の有名寺院である南宗寺の茶室の井は調御寺の前にあたるところにあったとの文書もあり、この井戸の調査の行く末は楽しみだ。
 「東洋のベニス堺」も度々戦乱に巻き込まれているから、少なくない寺院も移転したりしている。
 それにしても、何故「南宗寺の茶室の井戸」が「調御寺の井戸」なのか? そこのところは今は判らない。
 
 次にその台帳では、境内に「鬼子母神堂」もあったとある。
 鬼子母神は法華経・法華信仰の守り神とされているので法華宗真門派の同寺にあって何ら不思議ではないが、研究者の指摘に触発されて同寺安置の諸仏像を調査してみると、左手に赤子を抱き右手に吉祥果を持っていると思われる煤けた仏像が発見?された。高さおよそ6寸(約18㎝)程度。
 度々の戦火に奇跡的に焼け残った鬼子母神像だと推定される。
 蝋燭の煤で煤けた具合からしても相当古いものだろう。

 ものの本によると「関東の鬼子母神は母子像形が多く、関西では時代が下ると角を生やした鬼形が多い」と書いてあるが、そうだとすると、関西にあっても鬼形になる以前の形式ではないかと考えられ、一層年代が遡りそうだ。
 仏像について、国宝だとか重文だとか年代だとかで価値が異なるかのような議論は無意味だと考えるが、それでも、誰からも長い間忘れられていた仏像が発見され見直される瞬間に立ち会えたことには心の底から感激した。

 600年以上の歴史のあるお寺が残っていること、そのお寺の井戸枠が公道上にあることを堺市の歴史案内に記述してもらい、案内板等も設置してもらえるよう願っているが、小さいながらその一歩が踏み出せたようだ。
 研究者グループに感謝、感謝だ。
 
   啓蟄と聞いたかのっそり鬼子母神

5 件のコメント:

  1. これからどういう展開になっていくのか楽しみです。あの井戸に刻んである内容も気になります、ぜひ解明を!

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  2.  井戸枠の石に彫られている文字は、『安政5年(1858)?霜月 井戸家形(?) 発起人 京屋?兵衛 當山廿一世日?』と読めるそうです。

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  3.  神仏習合で言えば、今ちょうど修行中の修二会の東大寺二月堂の例の階段の廊下の下のところにも鬼子母神が祀られています。
     修二会の中では日本国中の神様の名前が読み上げられます。
     先日の記事で咒師を書きましたが、咒師や修験の山伏は道教の影響を色濃く残しています。
     国家神道以前のこういうおおらかさはいいですね。国家神道はいけません。そこに繋がる神社本庁もいけません。そこを峻別して理解することも大切だろうと思います。

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  4. 私は、井戸の文字の「?」の部分は「午歳」だろうと思います。それより、井戸家形とは何を表わすのか?井戸家形を検索すると地震のときに「井戸家形崩れる」という表記があり、井戸の上の覆いの事ではないかと思います。さらに南宗寺の茶の井戸だとすると利休とも関連ありとなればすごいことになるかもしれません。やはり、拓本をとる必要がありそうですね。

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  5.  井戸枠の文字の写真は持って帰っていませんので?ですが「午歳」ですか。
     「井戸家形」は「屋形」であり「家の形をしたもの」で間違いないと思います。
     「利休の井戸」はもう少し西にありますし、調御寺と南宗寺の関連は史料不足で何とも言えない状態です。

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