2016年11月23日水曜日

詩人には驚かされる

   全く偶然に、たまたま点けたテレビで永六輔の歌を特集していて、さだまさしによる「生きるものの歌」というのが流れてきた。
 六八コンビの歌らしいが全く知らない歌だった。
 メロディーは記憶に残らなかったが、その詩には驚いた。
 その歌詞というのが・・・こうだった。


 あなたがこの世に生れ あなたがこの世を去る
 わたしがこの世に生れ わたしがこの世を去る
 その時愛はあるか その時夢はあるか
 そこに幸せな別れがあるだろうか あるだろうか

  セリフ
  たとえ世界が平和に満ちていても
  悲しみは襲ってくる
  殺されなくても人は死に
  誰もが いつかは別れてゆく
  世界が平和でも悲しい夜はやってくる
  誰もが耐えて生きてゆき
  思い出と友達とそして歌が
  あなたを支えてゆくでしょう

 その時未来はある その時涙がある
 そこに生きるものの歌がある 歌がある
 そこに生きるものの歌がある 歌がある

 六輔さんはお坊さんらしいから、これは全くお経であり哲学書だと私は思った。
 そして、蓮如さんの(白骨の)御文(御文章)よりも私には素直に受け止められた。
 この世を去った人は、思い出してくれる人の記憶の中で生きていく。
 それ以外のことを私は知らない。
  
     悲しみの事実を見据えて生を説く詩人は逝けり
     真理とは悲しきものと六の歌詞(うた) 

 永六輔さんの「明日咲くつぼみに」は2012年10月30日に書いた。
 http://yamashirokihachi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_30.html

2 件のコメント:

  1.  長谷やん、洪水のようにすさまじい勢いで流されている情報の中で、自分の感性だけを武器に、瞬間的に「これだ」というものをつかみ取り、自分流に修正し改造してまた人に伝えていく、そういう営みが長谷やんのブログから漂ってきます。
     著作を通して私が誰よりも尊敬し、信頼する仏教者に長谷やんもご存じだと思いますが、山崎龍明師がおられます。
     師の初期の著作に、『仏教の再生』(毎日新聞社刊)という書籍があります。
     その中には、「独生独死、独去独来」(『仏説無量寿経』)とか、「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのである。私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである。私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイ伝十章)という言葉が、仏教やキリスト教における「独り」であることの自覚や、人間の持つエゴイズムを問題にすることの重要性を説いています。
     長谷やんの引用した詩の中に、共通するものをみたように思いましたのでコメントしました。

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  2.  詩人にも驚かされましたが和道おっさんのコメントにも驚かされました。
     私の思考はそんなに深くはなく、永さんが誰もが口に出すことを嫌がるような絶対的な真理を詩にして、その印象が暖かかったから驚き、非常に素直に納得できたからです。
     そして、和道おっさんの重厚なコメントに感謝しています。

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