2016年9月2日金曜日

右衽着装法

   土曜か日曜の夕方、息子から妻に電話があった。夏祭りに行くのに、嫁がいない状況で子ども(つまり孫の夏ちゃん)に浴衣を着せようとしているらしい。
 質問事項は女物の浴衣は右前か左前かの確認だった。
 洋服なら女物のボタン(襟)は男性と反対だから、いざというと分からなくなったようである。
 妻は「男女関係ない」「右手が懐に出し入れできるようにと覚えなさい」と教えていた。
 私は右手で裾を整えるという感じに覚えている。
 要するに右前である。左前は死装束になる。

 さて、この右前つまり右衽着装法(うじんちゃくそうほう)は養老3年(719年)元正天皇によって定められたもの。
 それが今日まで続いている。
 ところが、古代の日本が多くを学んだ百済(韓半島)では左前であるし、有名な高松塚古墳の人物像も左前である。
 幸いに我が家は奈良に近いので古い仏像を見る機会が多いが、結論を言えば、古い仏像の襟の左右はバラバラで、もちろん最初から右前ではなかったし、養老3年前後に右前が徹底されたようにも思えない。

 故福永光司氏によると概ね騎馬民族の襟は左前だという。
 そういえば、読んだ本は忘れたが、それは馬上で弓を弾くときにトラブルを起こさぬようにということだろうという指摘もどこかで読んだ記憶がある。
 福永光司氏は、それらを「馬の文化」と称し、東アジアの儒教文化圏が基本的にそうだという。
 そして右前は、呉服という言葉のとおり中国南部の文化で、氏はそれを「馬の文化」に対して「船の文化」と呼び、「儒教文化」に対して「道教文化」だと指摘している。事実、確認してみると(写真のとおり)道教の神像は右前である。

 日本の古代史をアジア史の規模で考える場合でも、直ぐに百済や魏や隋唐を考える傾向があるが、やはり江南の文化を忘れてはならないと思う。
 江南の稲作文化や道教の文化は日本文化の基層にどっしりと座っていると思う。

3 件のコメント:

  1.  テレビの「歴史秘話」で秦の始皇帝をしていたが、映っていた人物(俳優)はみんな右前でした。

    返信削除
  2.  歴史といっても、ほんとうはこういう話が一番好きです。
     なぜヤンキーの兄ちゃんはコンビニの前でウンチングスタイルで座るのか、なぜこの国では一神教が大きく伸びないのか等々、不思議なものごとには歴史的理由があるように思っています。

    返信削除
  3.  テレビで韓流ドラマの予告編が流れていた。李朝時代の時代劇だ。あれれ・・・みんな右前だ。詳しいお方!教えてください。

    返信削除