2016年8月12日金曜日

堺の大道のこと

 中公新書「日本史の森をゆく」の中の小宮木代良著「歴史資料と言説」という論文に、「ところで、過去の出来事(事件)に関しての共通認識といえるものが、その社会内で存続しうる条件は、事件後70年目あたりを境目に大きく変化するのではないか」という指摘があったが、その指摘によく似た出来事が少し前にあった。

   それは、堺市の小松清生さんのFBに堺区の区民評議会の様子が書かれていて、「大道(だいどう)筋における場づくり」などのテーマで話し合われたことに触れて、
 「大道筋という言葉は最近(のこと)で、(だから)紀州街道と言う方がいい・・という発言があったが、どうなんでしょう」とあり、補足して「委員さんのお父さんが50年ほど前まで大道なんて言うてないと言われたとか」「それで会の雰囲気が変わりました」とあった。
 小松さんは泉大津で育ったので「どうなんでしょう」と呟かれたようだ。
 (注 : 大道筋とは阪堺線の通っている堺市の中心部を南北に走っている筋)

 と読み進んで、60年ほど前にその地に住んでいたものとしては、ムムッと息が詰まった。
 子どもの頃普通に「大道」と言っていたというその記憶は幻覚で、いよいよ認知症も深まったか?
 と、いささか自信が揺らいだので何人かの友人に「小学生の頃、大道と言っていたか?紀州街道と言っていたか?」とメールで問い合わせた。
 宿院町東4丁の調御寺の住職や同級生からはもちろん「大道」との答えが返ってきた。
 私一人の幻覚ではなかったようだ。

 そこで、そういうことをコメントに書いてみたところ、「私は東区に住んでいますが大道では通じません。他所の方には紀州街道とご案内します」とのコメントも寄せられた。
 なので考えてみると、これは大阪市が旧町名を集めて新町名にした暴挙のようなものではなく、現代的な公式な町名としては存在しなかったもので、それ以前の近代~近世の歴史的な町名であることが解った。
 だから、政令指定都市の規模にまで膨らみ、私などのように旧市民が流出し、人が大きく入れ替わる中でそういう筋の名前は「死語」になりつつあるようだった。
 ああ、ならば座して死を待つか。

 と、少し弱気になっていた頃、和田充弘氏の次のコメントが寄せられた。
 「『堺研究』37号に翻刻させていただいた、清学院の往来物のうち、『堺町名』には「大道筋」が、『堺町名あらまし』には「大道」が載ります。
 幕末・維新の寺子屋教育では必須の基礎知識といえます。
 有名な元禄、文久それぞれの絵図にも「大道筋」が確認できました。
 『堺市史』所収の「手鑑」「申唱之町名」にも登場し、江戸時代には公的私的に使用されていたことは明白です。
 私の世代の旧市内出身者であれば、大道筋はごく常識的な呼称です。
 またこの区間は、その意味は理解していても紀州街道とは呼びません。
 やはり市内の主要な街路である御堂筋や烏丸通を国道〇〇号線と言わないのと同じ理屈です。
 学校で習ったのではなく親や親戚を通じて、使用はネイティブどうしに限定しますが、中浜、六間筋、目口筋くらいは今でも使っています」というものだ。
 (山之口筋の名前は商店街のお陰で立派に残っている)

 私も手持ちの書籍等でそれらのことの多くは確認できた。
 だから、「大道筋というのが最近の言葉だ」というのは明らかに事実に相違する。
 しかし、多くの堺市民が知らない言葉で「場づくり」も始まらない。
 少なくとも、60年前の子どもたちが普通に大道と言っていた事実は工夫をして残してほしいと思う。

 以上のことは「事件・出来事」ではないが、当時当たり前とされていた共通認識がかくも短期間(論文では70年程)で変わるものかと感じ入ったという話。
 戦争や被爆からは71年経過した。政治の世界では歴史修正主義が目に余る。
 今回の話はそうではないが、考えるに昭和40年・1965年あたりを画期としてこの国の景色は大きく変化したように思う。それから50年は経過した。
 なので、これに類似する出来事は全国で起っているのではないかと想像する。
 しかし、その街の共通認識を継承する世代が故郷を離れ、それらが話題にさえなっていないかも知れない。
 というようなことを語っているうちに、日々膨大な共通認識が死語辞典に送られているのではないだろうか。

2 件のコメント:

  1. ていねいに経過を書いてくださってありがとうございます。  長尾街道などもその道沿いに住んでいても知らない人が多かったのですが、ここ20年ほどの取り組みで名前が復活してきています。でも、竹内街道も長尾街道も、古代の道はちがう道筋かも知れない、堺のルートは江戸時代ぐらいのものか・・・という説もあります。  
     

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  2.  少し古臭いですが関英夫著「堺の歴史」(山川出版社)を読むと、大阪の陣後の復興を徳川幕府が大々的に行い、濠も地割りも一新されたようですね。
     ただこの記事で強調したいのは、これは堺だけのことでなく、古い地名やしきたりなどが今現在音をたてて?消えていっているのではないかという心配で、
     現代人が、歴史を学ぶことも大切だが、少なくとも自分の知っている「ちょっと昔」を記録したり引継いだりすることがとても大切ではないかと思ったことです。
     FBのコメントに書きましたが、御陵前の南、紀州街道の一つ東の筋を「中筋」と言い、我々の年代では大道同様100%使われていた地名ですが、現代はどうなっているでしょうか。興味は尽きません。

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