2014年6月30日月曜日

本に軍配かな

  芦田愛菜ちゃん主演の「円卓、こっこ、ひと夏のイマジン」という映画を観た。
 在阪テレビ局が揃って制作委員会に参加して、キャストも関西の子らに限ったという関西モノだが、吉本的な嫌な臭いがなく(吉本はほとんど出ていなくて)綺麗な映画だった・・・と感じるのは関西人だけで、全国区ではそのセリフ回しに少しは拒否反応があるかも知れない。
 予備知識としては、思春期前の小学生のひと夏の成長らしい・・・ということと、監督がテレビで、「芦田愛菜という子は大竹しのぶと同じように天才だった」と言っていたのを聞いていたことぐらいであった。
 というように予備知識が少なすぎたせいかもしれないが、ストーリーの展開が十分理解できなかったところが多々あった。それでも、なんとなく面白く理解できた感じになってシネコンを後にした。

  だからその後で、西加奈子著「円卓」文春文庫・本体470円を読み直したら、映画のストーリーが頭の中で繋がった。で、私は映画と本でいえば本の方に軍配を挙げる。
 が、在日の同級生の話などは、近頃腰の引けていた在阪テレビ局に似ず、原作以上に素直で素晴らしいシーンだった。
 映画は決して失敗作ではないと思うが、原作を読んでから映画を観た方が満足感を得られるように思う。(文庫本は映画代よりも安い。)
 ・・・・映画と本を思い返しながら、もうすぐ同窓会を予定している自分の小学生時代を思い出そうと記憶の奥を探してみたが、・・・自分のその時代が映画や本と同じだったような、違っていたような・・・そんな紗のかかった遠い思い出はボケたままだった。
 あの子供たちよりももっと素直だったような、もっとひねくれて大人びた知恵をぐるぐる回転させていたような・・・・・。

2014年6月28日土曜日

時代の空気

(1)
  義母の介護(回想療法)のためにというほど大層なものではないが、少しでも気分がよくなるようにと『少し昔の暮らし』や『昔の農具』などの写真集などを図書館で借りて、主に妻が母の話し相手になっている。
 そんな問題意識が頭の底にあるので、大きな書店を覗いた時などにその種の本を立ち読みすることも多い。
 先日も、第一次世界大戦前後の庶民生活の写真集をめくったが、俗に言われる大正デモクラシーなのだろうか、その意外な明るさに戸惑った。
 事実、義母の記憶の頁々も、貧しくはあったが悲惨と言うほどのこともない思い出が多い。ただこれは、飢饉の東北ではそんな悠長なものではなかっただろうが。
(2)
  言いたいことは、山田洋次監督作品の「小さいお家」ではないが、そういう個々の家庭の平和の下で戦争は着実に準備されていたという歴史の事実である。
 気が付いた時には庶民に抵抗できる余裕はなく、殺し合いの場に投入された多くの『人の良い常識的な父も祖父も』、口にできないような暴力をなしてきたのだと思う。それがリアルな戦争というものであって、そこに目をつぶってはならないのだろう。
 そして現代を鳥瞰すれば、それはまさしく私が頁をめくった本の『戦前の平和』と重なるということを何回述べても言い過ぎることはないだろう。
 さらにこの(現代の)「戦前」の向こうの戦争は核戦争と一触即発の危険を秘めており、せめてベトナム戦争の時代をリアルに見てきた人々は、「あの老人たちは何故あんなに青臭く戦争反対を唱え続けるのだろう」と次世代の者たちに、疑問を超えて理解してもらえるまで、発言し行動しなければと思っている。
 来週は、8月のヒロシマ・ナガサキに向けて歩く核兵器廃絶国民平和行進が大阪を通過する。
 気分的には(1)のプラカードにしたい気もするが、「独りよがりの押しつけ」にとられてもいけないと思い、(2)のプラカードを制作した。
 体調を気遣いつつ準備したい。

 プラカードにかかわって付言すると、『原則を押えて共感と展望を広げる宣伝』というのは本当に難しいが、そういう問題意識を持った者が試行錯誤するしかないと思う。これは、手作りミニコミやシュプレヒコールやイベント等々に通じるテーマでプラカードだけのことでもない。
 何もしない者が批判することは容易い。いわく、原則的でない。生ぬるい。等々。
 しかし、正しい原則を口にしすれば世論が広がるというのなら話は簡単である。とっくの昔にそうなっていただろう。
 「また某新聞の切り抜きのようなお説教かい」という宣伝に誰が共鳴するだろうか。
 だから、一人一人が自分の言葉で自分の思いを語る必要があるように思っている。
 ただ、そういう議論さえ低調になっている現状には少し寂しさを感じているが、「それはあんたの偏見や」と叱られるならそれでよい。

2014年6月26日木曜日

梅雨の季節

  毎年同じ季節に同じことを書くことができる幸せを書こうかと思ったが、朝食後突然悪寒を感じ、血圧も脈拍も超異常となり、果ては39度の発熱でガタガタと振えが止まらなくなった。というときに限って罹りつけ医の休診日で、以前に罹っていた他府県の医院に行って抗生物質などを貰って症状が改善したが、結局一日を棒に振った。この歳になると明日どころか今日何があるかわからない。

  1 アジサイは、私の好きな日本のガクアジサイがそもそもの原種で、それが改良に改良を重ねて世界に広まったらしい。
 この時期、アジサイと蓮の花を見ると、どうしてこんなに美しい花が地中から生まれるのかと感心する。
 仏教で「泥から生まれる蓮華」が尊ばれるのもそこにあるらしいが納得できる。
 我が家のアジサイは二つとも何かのセールスの記念品で貰ったもの。
 そんな出自は関係なく、今年も道行く人から喜ばれている。

  2 周囲の田んぼには、今年もカブトエビと豊年エビが泳いでいる。
 小さい頃、大和川の河口でカブトエビを見つけたときは、てっきり天然記念物「カブトガニの子」を発見したと信じ込んで興奮した。
 今から思うと当時の大和川は汚染度ワーストワンだったはずだが、どうしてカブトエビが泳いでいたのだろう。
 当時の汚染の主役は大腸菌で、化学的な汚染度は低かったのだろうか。

 3 孫が来た日、近所の小学生と中学生の子供たちが一緒に遊んでくれた。
 お礼にヤマモモ採りに連れて行ったら「こんなこと初めてや」と飛び上がって喜んでくれた。
 しかし、「ここでは食べるが持っては帰らない」と言う。「お母さんに怒られる」らしい。
 採っているとき通りかかった母子にあげたら、親のほうが驚いていた。

2014年6月24日火曜日

人間の気儘

ウメエダシャク
  他国には蝶と蛾を区別する言葉がない国も多いそうだが、もちろん我が国には蝶と蛾がいる(蝶と蛾が区別されている)。
 そして、平均的な日本人は、蝶と聞くと可愛いと言い、蛾と聞くと気持ち悪いと言う。
 そもそも蝶に比べて蛾とは何ぞや?と聞くと、蛾は昼に飛ばずに夜に飛ぶ、蛾は翅を広げたままとまる、蛾は胴体が太い、触覚の先が丸くない、等々と、冷静に考えるとおよそ学術的なものではない。一言で言ってそれは人間の気儘でしかない。
 先日書いたオオスカシバを蛾だと知っている人も少ない。

 といって、全く意味がないかというとそうでもなく、市街地で出会う蛾は、昼に飛ぼうが、翅を立てようが、胴体が肥満でなかっても、論理的な思考以前に、どこか可愛く感じられないから不思議である。・・・と感じる私は全くの凡人なのだろう。
 写真はウメエダシャクという蛾で、遠目では、とまっている姿はホシミスジという蝶とよく似ている。

ホシミスジ蝶
  しかし、ウメエダシャクがどこからともなく湧いてくるように大発生し、黄泉の国の使いのようにゆらゆら・ふらふら漂うと、一言でいえば気色悪いほどである。先日来そういう状況が我が町(と庭)で生まれている。
 3歳の孫は捕り易いので喜ぶが、感覚として文句なしに蝶ではなく、蛾と言われて異存はない。立居振舞いが蛾である。
 幼虫は尺取虫の一種らしく毛虫ではない。
 ウメエダシャクの子かどうか知らないが1.5センチほどの小さな尺取虫が、まるで親指と人差し指で長さを測るような動きに似た動作で健気に進んでいるのも可愛い。
 また、樹木を丸裸にするほどの食害も感じられない。
 だから私は、孫が来たときの昆虫採取ように放っておいている。
 ウメエダシャクが群舞している庭を見て、道を通る方々が好意的に自然を感じるか、手入れをしていない害虫の温床だと眉をひそめるかは解らない。
 現代人は、昆虫の知識以前に、蝶に抱く感覚、蛾に抱く感覚というような生物としての基礎能力をも失っているから、まあ、ほとんどのお方は昼に飛ぶ蝶だと思っているだろう。

 蝶に似た蛾のような法律がいっぱい成立したし、毒蛾のような閣議決定も議論されている。
 社会問題を峻別判断する能力も大事なことである。

2014年6月22日日曜日

熊楠の遺言

  「クマグスの森ー南方熊楠の見た宇宙ー」の著作もある松居竜五龍谷大学教授の講義を聞いて、今更ながら熊楠の偉大さを再認識した。
 私が感動したその個所は、森羅万象を正確に記録しようとした熊楠の徹底ぶりである。
 彼の晩年の日記がプロジェクターで紹介されたが、そこにはその日の記録の最後に「〇時〇分臥す」と就寝時刻が記されていた。
 その就寝時刻であるが、先ずはその部分のみ空白にして大部分を記録し、余白に走り書きのように鉛筆で数字の記載があり、その後その個所に清書・挿入されていた。
  つまり、あくまでも正確な記録にこだわった熊楠は、日記を書き終えた時刻を就寝時刻としたのではなく、自分が今まさに眠りにつく瞬間に、その正確な時刻を鉛筆で走り書きした・・・・・そうとしか考えられないのである。
 講義のこの件(くだり)では、受講者のほとんどは熊楠の偏執とも思えるこの行動に大きな失笑を浴びせたが、私は正確な事実を記録に残そうとした熊楠の執念に感動を覚えて笑うことができなかった。もっと正確には、この話を笑うものは帰れ!と言いたいような不快な気分でいた。
 
 正確な事実を記録しないということでは、大臣や与党幹部の失言がその典型だろう。
 社会から指弾を受ければ「真意ではなかった」と言い訳し、それで済まないとなると「遺憾であった」などと言う謝っているのか謝っていないのかわからない言葉で収めようとする。
 あるいは、地方選挙に出向いた与党幹部が、それ自体買収策以外の何物でもないが、莫大な「振興策」なる予算配布を約束し、選挙が終われば知らぬ顔で「財政は厳しい」と言う。
 片や国民も国民で、選挙になればこれまでの候補者や政党の一つ一つの態度を忘却し、嘘八百ともいえる大風呂敷に「何かしてくれそうだ」と投票する。

 熊楠の日記を笑った受講者は胸に手を当ててほしい。
 熊楠は現代人に、事実を直視し記憶しておくことの尊さを言い残していたのではないか。

追記  6月22日、和歌山出身のスーパー、オオクワに熊楠の実家であった酒造家・世界一統のお酒が並んでいた。
 熊楠とか南方という名で何種類も並んでいた。
 純米吟醸南方を求めたが、非常に美味しいお酒だった。
 熊楠には全くそんな気はなかっただろうが、熊楠は100年後に実家にお返しをしている。

2014年6月20日金曜日

松本サリン事件から20年

  1994年6月27日深夜にオウム真理教がサリンをまいて、8人が死亡、586人が中毒になった松本サリン事件から間もなく20年が経つ。
 事件後すぐに、自身も被害者でありながら第一通報者であり、その上に奥さんが重傷(回復することなく後に死亡)だった河野義行さんが犯人だとする警察主導の報道が大々的に繰り返された。
 当時のその報道内容には説得力があり?、彼が理工学部出身で知識があるとか、写真現像用薬品や農薬が原料であるかのように「論理的で科学的?」な解説が何度も何度も繰り返された。
 そのため河野さん宅には「人殺し」「町から出ていけ」という電話が深夜までかかってきて、町中で氏は誹謗中傷を浴びたという。
 かくいう私も、抗議電話などはしなかったが、彼が犯人だと信じ込んだ。
 私の知る限り私の職場でそれを疑うものは皆無だったように思う。
 彼の容疑が晴れたのは翌年の地下鉄サリン事件後のことである。
 この「誤った情報で他人を疑った」という私自身の体験は、思い返しても情けない苦い思い出である。

 今多くの人々は、いくらマスコミが騒いでも「私だけはたやすく嘘には騙されないぞ」と自信を持っているだろう。
 しかし、私には自信がない。ほんとうに自信がない。
 恐るべき情報化社会の下で、ある答えに向かって積み上げられた情報は、容易く国民を誘導できることを自覚しなければならないように反省している。
 私たちの国ニッポンは、「フセインは大量破壊兵器を持っている」と合唱しながらブッシュの後ろに付いて行ったが、その国の国民は今悲惨な状態に陥っている。
 誤爆、自爆テロ、劣化ウラン弾放置、そして内乱状態・・・、すべて「私は騙されていた」で済むのだろうか。ほんとうに騙された責任はないのか。
 この国では「私は騙されていた」とさえ言えば免罪される風潮があるので、肝心なところで歴史の反省や総括があいまいにされてきたように思う。
 その土壌の上に、集団的自衛権などという言葉の下に海外派兵も武器の輸出も我物顔の国に変身しつつあるが、子や孫が「何でこんなことになったん」と言ったときに、父母や祖父母として「騙されててん」と言ってはならないと心に決めている。

  ツイッター上にこんな文章を見つけた。
 戦争や原発が起こって
 初めて罪が発生するのではない
 戦争前 事故前の平和な時に
 何もしないこと
 無関心でいることは
 罪を犯しつつあることなのです
    臨済宗 妙心寺派 管長 
          河野太通老師
 
 こう述べられた妙心寺の老師にも頭が下がるが、それを「他宗派の管長さんの談話ですが、とても心にひびきましたので掲出させて頂きました」と貼りだした池上本門寺(日蓮宗大本山)にも敬服する。
 片や日蓮上人を口にしながら解釈改憲を容認しようという与党の人々がいる。

2014年6月18日水曜日

春を背負って

  映画「春を背負って」を初日の初回に観てきた。
 木村大作監督の2作目の作品である。1作目の「剣岳:点の記」も観ている。
 最初からドラマ性は期待せず、名カメラマン木村大作の美しい映像を楽しみに行ったので、その限りでは十分満足した。
 演出の隅々には不満もあるが、美しい映像で帳消しにしたい。

 私が日本アルプスを歩いていたのは30年近く前のことである。
 映画の中の山小屋にパソコンがあったり、ちょっとした緊急連絡に携帯電話が飛び交っているのを隔世の感をもって眺めた。

  でも、3000mの本物の景色はいい。
 体温を取られて急速に体力が落ちていった記憶も蘇った。
 重いザックごと体が浮かんで吹き飛ばされそうな稜線の思い出も。
 紙一重で死んでしまう乾いた落石の音も、すぐ後ろから運び込まれた怪我人も、・・・・・3000mは嘘が通用しない本物の世界だ。
 
 3000mの世界では、・・・年金は最後の一円まで必ず支払いますと断言し、フクシマの汚染水は完全にコントロールされていると見栄を切り、戦争にならないために憲法解釈を変えると約束してくれるようなリーダーの言葉を信じていたら間違いなく全員が遭難する。
 地上では、非正規雇用が当たり前になり、日本を代表する自動車会社がこの5年間に法人税を一銭も納めず、株主には1兆542億円配当し、内部留保は4079億円増やしている。
 漫才師のツッコミではないが、それはおかしいやろ。
 国民すべてが3000mの頂で頭を冷やすべきときだろうが、それが無理なら、せめてこの映画を観たらよい。

2014年6月16日月曜日

湯町かま

  玉造温泉に湯町窯(ゆまちがま)という窯がある。
  といっても、その存在を知ったのは今回が初めてなのだが。
 特徴は、現窯元の親か祖父さんあたりが柳宗悦、バーナードリーチ等とともに民芸運動に参加していたというところからくる、暮らしの器の美しさといわれている。
 ということを知ったのは、お嫁さんが旅行に行ってきたお土産にと湯町窯の「ぐい呑み」を買ってきてくれたからで、これまでの私のコレクションにはない逸品なのですぐに気に入った。
 どこが良いなどとあれこれ解釈するでなく、要するに気に入った。事実、お酒も美味しかった。
 以前に、割れてしまったので捨ててしまったが、私は神戸の元町で見つけた瀬戸物の「楊枝入」をぐい呑みに使っていたことがある。
 「地酒を楽しむ会」に持参したことがあるが、酒器に一家言のある誰もが「楊枝入」とは言わなかったのが愉快だった。
 言いたいことは、高いからよいとか誰々の作だからよいというのでなく、自分が使って美味しいかどうかである。

  民芸運動というと、五条坂に窯を開いた河井寛次郎がいるが、その河井が文芸文庫「火の誓い」などで「最も美しい村」だと公言して幾度も通ったという集落、京都府精華町植田の集落が我が家から遠くない場所にある。
  すぐ近くまで立派な道路が延びているが、雑木林の緩衝地帯に守られて、今でも往時を想像させる静かな集落である。
 こういう景観の中に心を解き放して河井が作陶に励んだのかと思うと、何か解るような気もした。
 何事につけ、目先の売買価格で物事を評価する傾向があるが、景観は大事な大事なものだと思う。
 重ねて言うが、湯町窯のこのぐい呑みは気に入った。

 息子とお嫁さんが富本憲吉記念館に行ってきたらしい。閉館され荷物の運び出しの最中だったらしい。
 志賀直哉の遺品といい、奈良県下のこういう品々はみんな個人任せにされてきた。そして、時とともに散逸しつつある。悲しい国ではないか。

2014年6月14日土曜日

ドクダミの詩

 
  どういうわけか近頃は、動物や植物の名前がカタカナで表記されている。
 そのため、この花の名のドクダミと聞くと、反射的にそのキツイ臭気と合わさって毒々しい感じがするが、漢字で見ると「毒矯み」で「毒を抑える」というのだから正反対の意味である。
 別名の「十薬」も「万能薬」の意だろうし、「どくだみ茶」は今では広く市民権を得ている。
 たしか最初はハイキングの折りに採取してきて庭に植えたのだが、その繁殖力の旺盛なこと。
 そのため、今はドクダミを退治するのに必死になっている。
 ただ、その持余す繁殖力を別にすれば、十文字の白い花は可愛くもあり、あの臭気?も、私は都会の汚れた空気のところから踏み出して里山の登山道に一歩踏み込んだ記憶が蘇ってきて嫌いではない。
 しかも、近頃の我が家では台所の後始末が億劫なので天ぷらという料理をしなくなったが、以前に「どくだみの天ぷら」を作ったときには嘘のように臭気が飛んで野趣を味わった。
 そうであるなら庭に放っておいてもよいのだが、この種の草が繁茂するとその草むらにやぶ蚊が大発生するので退治している。
 
カメラに緊張したような顔だがトカゲには全く緊張しない
  孫の家も同様なので、やぶ蚊対策のため庭の草刈りを手伝った。
 口では「生物の多様性」を言いながら「不快害虫だ!」と叫んでいる支離滅裂ぶりを大目に見てもらいたい。
 さて、ほんとうに草むらは「豊か」で、いろんな虫が飛び出してくる。
 虫と一緒にトカゲの子供も飛び出した。
 夏ちゃんは、私が無理強いなど一切していないのに、「可愛い可愛い」と言って、大人たちが「もう逃がしてあげよう」と言っても「いやや」と言っていつまでも持ち歩いていた。
 そして家の中に入っていったときに、キャ~~というお母さんの声が聞こえてきた。(それは私のせいではない。)

  話は昔々に跳ぶが、早くに亡くなった私の実父は毎朝4時ごろから魚市場に行っていた。
 そして、小学生の私に魚市場の数字の符牒を教えてくれた。
 それは「トカゲ見て安売りね(=12345678910)」だった。
 今も生きている符牒かどうかはわからないが、それよりも、なんでこんなケッタイナ符牒が生まれたのかが不思議である。確かめも調べもせずに半世紀以上過ぎてしまった。

2014年6月12日木曜日

桑の実

  物心ついた頃からは近畿の都会で育ち、現職の時代は仕事場と会議室と居酒屋ばかりだったから、「花鳥風月」はリタイヤしてから齧り始めたという青二才である。
 そんなものだったから、20代後半に初めて群馬県に行ったときには、上信越線の車窓に広がるイチジク畑に感動して、「上州はイチジクの産地だったのですねえ」と感想を述べたら、上州の皆さんからモノ知らずを憐れむような視線とともに「あれは桑畑なんですけど」という返事が返ってきた。
 その後、群馬出身の上司と巡り合わせ、酒席でそんな話をしたら、「宮中では天皇が稲作を、皇后が養蚕をされるのを知っているか」と尋ねられ、「さすが富岡製糸場の地だけのことはある。養蚕と桑畑は郷土の誇りなんだ」と、文字上の知識でなく、その郷土の精神のようなものを学んだことを思い出す。
 
 いつもの歩道に、赤く熟した実を見つけた。
 桑の実だろうかと想像したが自信がない。
 食べてみると、ほんのりと甘いがそれ以上でもないし、家に帰ってから私よりは植物に強い妻に尋ねたが、妻も「私も気になっていたが、実が少し小さいし、味もあまり甘くない。葉っぱも少し薄く感じる。」とのこと。
 葉っぱを持って帰ってきたが、どういうわけか私の「樹木の検索の本」には「桑」が載っていない。
 樹木というよりもある種の農産物扱いなのだろうか。解らない。
 で、十分に自信はないのだが、「まあ桑やろう」ということに夫婦で決し、道を歩くたびにひょいと摘んで口に入れている。
 10数年間通勤その他で歩きなれた道だが、こういうこと(桑の実の収穫)を今年初めてやってみた。
 樹木のことだって知らないことばかりだ。

 私の街も、隣の街も、どういうわけかゴミ収集車(パッカー車)の音楽はまったく同じ「赤とんぼ」だ。
 ♪ 山の畑の桑の実を 小籠に摘んだはまぼろしか ・・・私のことを言われているようだ。
 こういうのを共同幻想というのかどうかは知らないが、「故郷」や「赤とんぼ」の歌(歌詞)はほとんどの人々に郷愁を感じさせるようだ。考えてみればおかしなものだ。
 書いたように、私は桑の実を摘んだ経験もないし兎狩りをしたこともない。(妻の小学校では兎狩りの行事があったそうだが) 
 それは、ことあるごとに「これが郷土だ」「これが幼い日の風景だ」と刷り込まれてきた結果ではないだろうか。少なくとも私のような者にとっては・・・
 「故郷」も「赤とんぼ」も他愛ないテーマであるからよいが、立派な私たちの先輩が「神国日本」を信じ、「人殺し(戦争)を正しい」と信じたような刷り込みは怖い。

 桑というと、私は「赤とんぼ」よりも門倉訣作詞、関忠亮作曲の「桑畑」という名曲を思い出す。
 東京都下砂川町(現立川市)は八王子の絹織物のための桑畑が広がっていた場所。
 朝鮮戦争末期に砂川(立川)基地拡張(強制土地収用)反対闘争の中で生まれた歌だとか。
 郷愁の向こうに仕舞っておきたいこんな歌がますますリアリティーを持ってきた現代に、老人達は座していていいのだろうか。(♪桑畑はyou tubeにある)

2014年6月10日火曜日

糸巻きタンク

  糸を使い切った妻が「夏ちゃんにタンクでも作ってあげたら」と言って私に糸巻きを投げてよこした。
 ただ、昔あったような木製ではなくプラスチック製だから、なかなか制作意欲が湧いてこなかった。
 いつまでもそんなことを言ってられないので作ったが、その簡単なレポートを書いておく。
 先ず、糸車はそのままでもいいが、ここはやっぱりタンクらしく歯車様の切り込みを入れたい。
 昔なら肥後守の出番だが材料はプラスチック。
 なので・・・金属用鋸の歯で切り込んだ。
 ゴムを止める側はドリルで少し彫り込んでネジ釘をねじ込んだ。
 その反対側だが、さて、我が家には標準的な蝋燭がなかった。
 そこで、キャンドルから蝋を垂らした上にワッシャーを重ねて適度の潤滑性を生み出した。
 レポートといってただそれだけである。
 3歳の孫は親のスマホを玩具のように扱う。
 祖父・祖母は、その知恵に感心しながらも、「ほんとうにこれでいいのか」と心配している。
 仕組みは解らないが操作ができて結果が楽しい玩具って、よい玩具だろうか。
 おかげで、今のところは祖父ちゃんのアナログ玩具も喜んでくれている。
 祖父ちゃんは、この無骨なタンクを素直に喜んでくれる孫を素直に喜んでいる。
 しかしほんとうは坂を登る糸巻きタンクを眺めながら、孫よりも祖父ちゃんの方が心が躍っているのだ。

  こんなものだから、蒲鉾板も、二股の枝も、針金も、・・・次の手作り玩具の材料にならないかと、よう捨てずにいる。
 そんな私を妻は、『ゴミ屋敷老人』と軽蔑しながら糸巻きを投げてくるのだから勝手なものである。

2014年6月8日日曜日

庭先の貴婦人

  庭先にやってくる昆虫の中でこれほどエレガントな昆虫を私は知らない。
 ということを度々書いてきたが重ねて書きたい。
 スズメガという蛾の一種なのだが、鱗粉が全くないのだから、もう蛾の片鱗さえ捨て去っている。
 蜂に擬態したというのが定説だが、本人たちはハチドリになりたかったのだと私は想像している。

 このオオスカシバ、庭先の貴婦人を私は大好きだが、ジェット機のような飛び方で普通には写真すらなかなか撮らせてくれない。
 ところが孫とモンシロチョウを追っていた時に突然の訪問を受けたので、孫を放ったらかして網を振り回して捕獲した。そして、部屋の中に放って、「これは蜂とは違うんやで」「綺麗やろ」「可愛いやろ」と説明した。

 はじめはその何となく攻撃的な羽音に退いていた孫も、徐々に「可愛いなあ」と言うようになり、ついに爺いと孫は固い「スカシバ好き」の虫好き仲間になった。

 動物生態学、保全生物学の岩崎敬二先生の話を聞いたことがあるが、昆虫学等の各国専門家が日本に来たとき、「日本の一般庶民がミンミンゼミとアブラゼミとクマゼミを聞き分けているのが信じられない」と驚いたらしい。
 欧米には鳴くセミが非常に少ないことや『右脳、左脳問題』もあるが、それにしても日本人は世界中では相当な虫好きの国民らしい。
 別の本では、「ほとんどのフランス人はファーブルを知らない」と読んだこともある。
 事実、歳時記の【蛾】の部にも数多くの俳句が挙げられており、この天蛾(スズメガ)はもちろん、火取蛾(ヒトリガ)、火取虫(ヒトリムシ)、火虫(ヒムシ)、灯蛾(トウガ)、火蛾(ホガ)、燭蛾(ショクガ)、鹿の子蛾(カノコガ)等々と17の季語が例示されていた。
 そういう先人の心の豊かさに比べると、虫を見たら「怖い」という現代人は異邦人のようである。
 事実上のアメリカの植民地になったことに伴ってこの国の文化や感性さえ捨て去り、口を開けばグローバル化だと繰り返している、・・・典型的な植民地現地人なのではないだろうか。
 亜流の人々は虫を怖いと言いながら「生物の多様性と環境保全」を説いておられる。

 孫にはこのブログに使用した写真を2L版にプリントをして持って帰らせた。
 迎えに来たお母さんにそれを見せながら「スカシバを捕った」と自慢していた。

2014年6月6日金曜日

どんぐりの食文化

 「どんぐりの食文化」というテーマの講座があった。もちろん面白そうだったので受講した。
 どんぐりが非常に優秀な食材であること、縄文の遺跡からも食事の事実が認められること、粉砕→水洗→あく抜き→乾燥→どんぐり粉→クッキー・団子・粥というように調理したこと・・等々の話でそこそこ面白かった。
 しかし正直にいえば、それらの話はほとんど知っていたことだったので、私にはあまり新鮮な話題ではなかった。
 それに、(どんぐりの中の)シイについては粉にせずとも食べられるから、実際、お祭りの屋台でも煎って売っているから、もっと普通に食べていたのではないかと私は思うのだが、私の質問にも講師の話は「粉にする、あく抜きをする」というようなワンパターンの回答に終わったように感じられた。
 だが、知識として講義を聞きに来ていた方々には新鮮な話題であったようで、ホワイトカラーOBのように見受けられる会場の多数の雰囲気はそうだったから、その雰囲気を私が壊す必要もなかった。
 私は、一番興味のあった「あの渋味は、あく抜きが不十分であった場合に毒性があるのか?」ということを質問したが、答えは、「あの渋味の成分はタンニンで毒性はないどころか、今はやりのポリフェノールである。」とのことで、私限りでは嬉しい回答だった。
 他の人は、今さら食べてみようとは全く考えていないようで、知識としての「どんぐりの食文化」を机上で学ぶことに満足しているようだった。教室の雰囲気はそうだった。
 だから、2013.11.23のマロングラッセの記事に書いた、私の、語るも涙の「クヌギ グラッセ」の実践レポートは話すのをやめておいた。

  ただ、私にとって新鮮な知識といえば、どんぐりの食文化が現代の朝鮮半島には残っているという知識だった。これは初耳だった。・・・・・なので、その数日後、大阪に出た時に鶴橋駅西口に降りてみた。(先日火事のあった場所近く)
 で、朝鮮料理店に順番に首を突っ込んで「どんぐり豆腐の料理はありますか?」と聞いて回ったが、「どんぐり豆腐はどちらかというと夏の料理やし、それに、この周辺で出している店は知らんなあ」という答えばかりだった。(御幸通りのコリアンタウンにはありそうだったが。)
  ならばと、鶴橋マーケットの方で「素材としてのどんぐり豆腐」を探したが、これもおいそれとは見つからず、それでも庶民的な街だから、「うちには置いてないが、あの辺にはあるやろう。トトリ ムと尋ねなさい」という話を継ぎ足継ぎ足ししてようやく手に入れた。
 300円ちょっとの安いものだし、「美味しい食べ方を教えて?」と聞いたら、特製のタレもサービスしてくれた。高木商店という店だった。 
 どんぐり豆腐はトトリ ムといい、ムッという感じで発音したらよく通じた。
 このトトリ ムの原材料名は「どんぐり粉、水、食塩」だけというシンプルさで、キャッチコピーが「仙人の不老食」だった。
 (トトリ=どんぐり)(ム=でんぷんをゼリー状にした食品の総称)らしい。
 食感はごま豆腐のようなもので、味はほんのわずかな渋味以外何もなかった。
 私は、豚キムチ、サンチュ、白髪ねぎ、ミニトマト等をトッピングして、店からいただいた「ごま油醤油?」でハツモノを楽しんだ。 
 朝鮮料理という概念を取っ払って、普通のサラダの素材のひとつにするのもいいかもしれない。
 ああ!あの「クヌギ グラッセ」に比べてなんと簡便なことか。簡単すぎる。
 私はどんぐりの食文化としてはクヌギ グラッセに軍配を上げたいが、それは自分の投入した苦労に対する単純な自己満足だと解っている。

2014年6月4日水曜日

疑うは楽し

  日本と日本人の歴史を考える場合、最も古い一級史料は魏志倭人伝となる。
 それ故、邪馬台国の位置についてあれほどあれこれ言う人も、衣食住については概ね魏志倭人伝を大前提に解説している。
 しかし私は、あちこちの博物館などで縄文や弥生の出土品を見ながら、例えば「倭人は手食す」という魏志倭人伝の記述が「ほんとうか」と疑っている。
 つまり、箸を使っていなかったというのである。
 倭の伊都国には帯方郡の郡使が留まることもあったというのにである。
 本の名も著者の名も忘れたが、こういう疑問を持った人が先にいたことを図書館で知ったときには大いに勇気づけられた。
 確かその本では、縄文や弥生の発掘調査で出てきた木片を「箸ではないですか?」と尋ねると、「専門家」には一笑に付されてばかりだったと著者は嘆いていた。
 先日、大阪府立弥生文化博物館を訪ねたが、そこには現代のオオサジあるいはチリレンゲにあたる木製の匙が展示されていた。けっこう小さいものである。
 以前にも語ったが、弥生の金属製品などは「これは昭和20年代のものです」と言っても誰も疑わないようなものも結構ある。
 この匙の近くには鉄製の「毛抜き」も展示されていた。
 そんなこんなを考えると、ほんとうに弥生人は手食だったのだろうか。(鉄製毛抜きは使っていても箸は使っていなかった?? それは金属製のピンセット型の箸である可能性はないの??)
 先の本を図書館で読んでから、あちこちの博物館や現地報告会で私はひそかに箸と思われる木片が見つからないかと探している。
 ひと口に倭人と言ってもピンからキリだろうから一概に「当時の風俗」と言えないかもしれないが、帯方郡の一大率(一大率は女王国の官という説もあるが)が田圃の畦で握り飯を頬張っている倭人を見て、「倭人は手食す」と言ったのかもしれないと頭の奥で考えている。
 定説を疑いながら出土品を見て廻るのはとても楽しい。

2014年6月2日月曜日

人間ドック

 先に、「大往生したけりゃ医療とかかわるな」という本や「平穏死のすすめ」という本のことをこのブログに書いては見たが、そうはいっても癌は気になる。
 先日から小学校の同窓会の準備をしているが悲しい知らせも複数ある。
 そういうわけで、どちらかというと用心深い私は今年も人間ドックに行ってきた。
 そして人間ドックの結果が郵送されてきた。
 紹介状が何通も同封されていたが私には「病人」という自覚がないから使用しないつもりだ。
 自覚症状としては腰が痛くて整形外科に紹介してもらいたいくらいだ。(こんなことは紹介されていない)
 しかし、病院と国保連に言わせると「その態度がいけない」というのだろう。
 
  先日、人間ドック学会が「健康な人」の基準を来年4月から緩和する・・・と報道された。
 このブログを書くために再確認してみたら、日本報道検証機構というところが「誤報だ」と注意しているが、感覚的には従来の基準て厳しすぎないか・・・と、報道された内容にうなずいていた。
 というのも、BMI、血圧、中性脂肪、LDLコレステロール、HbA1cなど、私の検査結果に大いに関わる項目が多く、変な言い方だが新基準に改定されれば『異常』の程度が小さくなる。(「それがどうした」と言われるだろうが、その方が何となく日々を気楽に過ごしやすい。)
 それに「基準よりも少し肥満の方が長寿になる」とよく言われているが、そうであれば、そんな「基準」っておかしくないかと常々不満に思っていた。
 日本報道検証機構のことは知らなかったから、かかりつけ医にもドックの医師にも「新基準なら大したことはないのじゃないのか」と言ったが取り合ってもらえず、「小役人的な形式主義だ」と怒っていたが、ほんとうのところは解らない。
 なお、私のγーGTPは新基準でも文句なしに「異常」な数値だが、これについてかかりつけ医は、「γーGTPは病気と関係ない。こんな(γーGTPの)検査は、する方がおかしい。」という自論を展開されているので、そこのところは、ふむふむと私もそれに乗っかっている。
 
 今年のドックでは胃カメラを鼻から入れた。「喉よりも楽ですよ。」というのだが、感想は微妙である。
 腹部エコーは毎年写りが悪い。後でよく考えると「息を吸って」というところで腹式呼吸をしているのが問題のような気がする。そうであれば、もっと丁寧に指導してもらいたいものだ。

 話は元に戻って「基準値」のことであるが、これは『若い健康人が95%含まれる値』であるそうであるから、健康であっても5%の人は外れていることになる。だから、即異常でも病気でもない。
 理論的には健康人が2項目を検査して2項目とも基準値に入る率は0.95の2乗で90.25%になる。同様に5項目だと77.37%である。(「大往生~」の本にある)
 だから、いわゆる成人病については無駄な抵抗をしないでおこうと思っている。