2012年2月29日水曜日

ぼやき漫才のような映画評

   若い頃は、「(年長者が見ている)黄門様の時代劇などどこが面白いねん」と思っていたが、今では「深刻なドラマはもうええ」という気持ちになってきた。これは明らかに老化現象らしい。

 ということで、「ALWAYS三丁目の夕陽」をシルバー割引で観に行ってきた。
 そして、ストーリーではない細部が目につくというのも、これもまた明らかに老化現象に違いないのだが、その一つが『ろくちゃんの東北弁』。
 映画の時代よりももう一時代新しい頃東京で働いていた私たち夫婦の感想を言えば、「あんなマルマルの東北弁を使う娘はいなかったよなあ」である。
 大阪人には理解できないほど東京における東北人の東北弁コンプレックスは大きく、誰もが必死に標準語を話していたように憶えている。
 だから、ろくちゃんだって「東北弁」と「東北訛りの標準語」のバイリンガルであったはずである。
 そもそも原作が漫画である映画にこんなツッコミを入れるのは大人気ないが、・・ヤクザとお笑いは大阪弁、男らしい男は九州弁、田舎者は東北弁・・的なステレオタイプはうんざりするほどテレビや映画の画面で踏襲され、それどころか増幅されているように思う。
 そしてこの頃気になることは、この、主として在京テレビ局が作ったデフォルメだらけの「ステレオタイプ」が、名指しされた当人たちの意識をも操り、例えば、ある種冷静さが求められる地方自治のあり方を考える時に、あえて非理知的に振舞い、テレビで名の売れたタレントを「ノリ」という感覚で異様に賛美するのが大阪人的だと一部の大阪人自身が言うような風潮の源をここに感じるのは思い過ぎだろうか。
 「あんな映画なんか綺麗ごとや」「うそっぽいわ」と言う前に、抑制と寛容を忘れた露悪的な下品さが大阪人だ・・・的に(メディアに)マインドコントロールされ、「他人の不幸は蜜の味」というフレーズに笑い転げているうちに何かを忘れてきた一部大阪人ほど「三丁目の夕陽」を観てほしい。
 何でも「昔はよかった」という気などさらさらないが、市長や知事の品のない暴走を目の当たりにして、ちょっとそんな気になった。
 某芸能人のマインドコントロール騒動は他所事だろうか。
 この国のメディアの歪みは度し難い。

2012年2月27日月曜日

オオタカはカナシカラズヤ

   23日のブログの鷹(タカ)と駅前で再会した。
 今回の写真(の翼の模様)では、その模様がどうもチュウヒではなさそうなので、思い切って日本野鳥の会奈良支部に教えを乞うたところ、この写真はオオタカかハイタカではないかと御教示をいただいた。
 私の感覚ではカラスよりも大きかったから、「それならハイタカではなくオオタカでしょう」とのこと。感激である。
 環境省のレッドリスト掲載のオオタカが我が街にやってきた。 そして、撮影も出来た。 日頃、関心を示さない妻も「すごいやないの」と共感してくれた。 しつこいようだが感激、感激。

 そういえば、我が街から“タカ的には目と鼻の先”で、UR都市機構(旧旧名:住宅公団)による木津ニュータウン(中央地区、北地区)の大規模開発が進んでいる。
 そして、その開発予定地で「オオタカの営巣が確認されたので工事がストップしている」という新聞記事を何年も前に読んだことがある。
 だから、その地のオオタカである蓋然性は極めて高い。
 その地区の工事はというと、UR都市機構の「事業仕分け」騒動の後、びっくりするほど急速に進んでいる。
 その異常な急展開振りは、緑の山が日々一瞬に土気色に変わっていくことで万人に確認されている。
 だとすると、これは「我が街にオオタカがやってきたぞ」とばかりに単純には喜べないことかもしれない。

 そも、オオタカは、環境省のレッドリストで「絶滅危惧種」であったものが今は「準絶滅危惧種」に変更されている。曰く「目撃が増えているから個体数も増えているのだろう」ということらしい。(廣井敏男東京経済大学名誉教授・JWCS(野生生物保全論研究会)理事の指摘参照)
 しかし、もし今回の私の推測が正しければ、それは、我が街周辺の自然が豊かになってオオタカが増えたというよりも、オオタカが本来棲んでいた木津の林や里山の自然破壊でやむなく少し離れた当地まで足(羽)を伸ばして都市住民に目撃されたと考える方が素直なような気がしてならない。

 フクシマを見て知った今となっては、一見学術的、自然科学的結論であるかのようなオオタカの分類変更にも、「オオタカが絶滅危惧種のままだと開発が進まない」という開発業者や政治家、土建高級官僚、御用学者等利権共同体の横車がなかったかと想像してしまうのだが・・妄想でなければよいがと思っている。

 オオタカ L♂50cm・♀56.5cm W105~130cm 暗青灰色で尾には4本の黒帯がある。翼の下面は黒い黄斑が明瞭。
 原生林ではなく人の手の入った里山に棲息。
 故に、木津の地は10年以上前からUR都市機構に土地を売り払った農家が手入れを止めたため、今般の本格造成前からオオタカが棲み辛くなっていた。
 UR都市機構は一部の林を残して人工の巣を設置して保護しようとしているが・・・・・。むむ・・。

2012年2月25日土曜日

こおつと大学転校

   義母の実家は生駒山の中腹に今もある。
 365日田畑の手伝いに追われていた義母にはお祭りの記憶もないという。
 唯一思い出したお祭りは、生駒谷を下り矢田丘陵を登ったところにある松尾寺と矢田寺(いずれも大和郡山市)詣りであった。
 そんな思い出を聞いていた時、私が「矢田寺には味噌なめ地蔵がありますね」と尋ねたら、「それは知らんかったなあ。水呑み地蔵は家の上にあったけど・・・」と懐かしそうに語りだした。
 それは、聞くほどに、単なる路傍の地蔵のことではなく、ちょっとした地蔵堂らしいことが判ったが、遠い記憶ゆえ詳しいことは判らない。
 妻もそんな話は聞き初めらしい。
 こんな時ネット社会は便利なもので、パソコンの地図で辺りを探してみると十三峠(じゅうさんとうげ)の大阪・八尾側にはっきりと書かれている。
 ということで、冬晴れの日に親戚(義母の実家)を訪問がてら車で走ってみた。
 車のナビは大阪側から行けとうるさいが、ここは義母の思い出を辿らなければ意味がないから、実家からの細い道を北を向いたり南を向いたり見事にくねくねと登っていった。
 
 以前に暗がり峠をちょっとだけ書いたが、この十三峠も大阪と奈良を結ぶ歴史ある幹線道路で、名前の由来は、峠近くにある国の重要有形民俗文化財「十三塚」にある。
 また、お能の世阿弥の代表作の一つ「井筒」で有名というか、その元となった伊勢物語(筒井筒)で有名な、つまり、在原業平が河内高安の娘のもとへ「河内通い」をした業平道である。
 たどり着いた水呑み地蔵は河内平野一望の絶景で、弘法大師の霊験によるといわれる清水がこんこんと湧いていて、なるほど「水呑みさん」である。
 「みんなで順番に」という説明書きの書き振りでは土日などに水汲みにやってくる人々が多いらしい。
 素朴で、それでいて思ったよりも立派なお堂であった。
 遠くない地にこんな再発見があるから、義母に弟子入りをして「こおつと大学」を再開しよう。

2012年2月23日木曜日

呼ぶよりそしれ

 「呼ぶよりそしれ」とはよく言ったもので、一昨日のブログに「冬鳥が来ない」と書いたら、ようやくではあるが我が家の近くに磯ヒヨドリ♂が帰ってきた。
 春まで同じ場所にいた個体だと想像するが、はっきりとは解らない。
 名は体を必ずしも表さず、海岸(磯)と遠く離れた京阪奈の地に律儀にも帰ってきた。
 ガイドブックには「留鳥または漂鳥」とあるが、去年見たのも冬だったので、私の感覚では冬鳥の感じである。此処へは冬にだけやってくる・・その理由は判らない。
 ただし、今は見なくなったイソヒヨドリ♀は初秋と言ってもよいような頃(9月29日のブログ)にやってきているから、正確には冬鳥ではないのだろう。きっと。
 この赤い胸も鮮やかなイソヒヨドリ♂。わが町から駅もしくは駅前のショッピングモールに向って大勢の人々が歩いている歩道際にいるのだが、おそらくイソヒヨドリに気づいている方は数人もおられないだろうと、ケチな満足感に浸っている。
 さらに上空に鷹が飛んできた。チュウヒだと思うが正確には解らない。
 チョウゲンボウ以外の鷹を我が家のすぐ近くで見たのも初めてで、この間までの「鳥枯れ」が嘘のようである。
 イソヒヨドリとチュウヒに別れてから奈良市に出かけた。
 猿沢の池にカルガモとカイツブリが一緒に泳いでいた。
 カイツブリを見て小さな子どもが「赤ちゃん可愛いい」と言ったので、子どもの後ろから「その小さいのは大人ですよ」と言うと「へえ~」と子どもの親が驚いた。
 カルガモにパン屑をちょっとだけ投げてやると、カイツブリがジェットスクーターのように割り込んで食べていったのでこちらが驚いた。
 「事実は小説よりも奇なり」は死語でない。

 2月26日追記
 どうもチュウヒではないようです。
 ではその正体は??
 2月27日のブログに書きます。

2012年2月21日火曜日

四十雀(しじゅうから)の家探し

住み心地を思案する四十雀
   去年の秋に我が家の目の前の街路樹が丸坊主にされたためか、今冬はジョウビタキ、ツグミ、シロハラ等の冬鳥はおろかメジロまでもが我が家を訪問してくれず、たまにスズメやヒヨドリが来るだけの寂しい庭を眺めて過ごしている。
 そんな中、四十雀がやってきて、売れ残りの空家物件(巣箱)を興味深そうに観察した。

 で、ここまではよくあることで、どうせ飛び立っていくに違いないと眺めていると、案の定飛び立っていったのだが、すぐにペアになって帰ってきた。どう見ても「呼びに行った」という感じで・・・・。
 そして、1羽が物件の住み心地をあれこれ実地調査をし始めた。
 「ちょっと狭い」とか「古いねえ」とか、2羽で相談しているのだろうか。

 我が家の植木も相当強い剪定を行ったので、物件は周囲から丸裸の感じである。
 だから、あまり期待はしていないが、今春、四十雀がマイホームにしてくれたら楽しみが一つ増えることになる。
 これまで我が家から巣立った鳥は、雀、ヒヨドリ、百舌鳥しかいない。
 近所のお家に蝙蝠が棲みついたのを羨ましく思っていたが・・・、自治会の役員会では「害鳥?だ」として、私の感想は白い目であきれ果てられた。
&%$#&%$#???

 スノウさんから「鶯の囀りを聞いた」とコメントを戴いた。
 ミリオンさんからは「庭先に、裏の御陵から狸のファミリーが今春も現れた」と季節情報を戴いた。
 いろいろあった冬だったが、季節は人間の感慨などお構いなしで粛々とシーンを更新していく。
 それでいいのだ。

2012年2月18日土曜日

漢字の成長と先祖返り

   ツイッターを読んでいると、ある知識人が「民という字は、刑として針で目を突きさした形で捕虜・奴隷を表しているから、民主主義という熟語も含めて嫌いである」と書いていたことがある。
 白川文字学を読んでいるとこれとよく似た驚きがあって、なんとなく解る気もするがなんとなくおかしな気にもなった。
 確かに、例えば、姓や名とりわけ名などは親がわが子の将来を考えぬいて嘉字・嘉名を選んだはずなのに、実はその字源は恐ろしいという事例がざらにある。というか大半がそうである。
 「白川静さんに学ぶ 漢字は怖い」(新潮文庫)のネーミングはあまりにドンピシャすぎると笑ってしまう。

 一例に、「久」という字は死体を木で支えている。その「永久の人」を箱に納めたのが「柩」。・・というから、ちょっと背筋が寒くはなるが、白川静先生は「人の生は一時(わずかの間)であるが、死後の世界は永遠であるという古代の人々の考えによるもので・・・永久、久しいという積極的な意味が生れた」と述べておられる。このあたりの眼力にはただただひれ伏すしかない。

 付け加えるなら、安陽に都した時期の殷王朝の甲骨文字に始原を持つ漢字は、約3,300年の間の中国人や約1,500年の日本人の生活と文化の中で、意味を豊かにし、あるいは変化をさせ今日に至っているのだと考える方が素直だろう。
 だから、例えば自分の姓名等の漢字を3,300年前の古代人の考えに停止させて捉えるのでなく、始祖の知恵を理解しつつも3,300年の文化によって成長してきて今のあるのを積極的に受け止めるのがよいのだと思っている。
 故に、「民主主義という言葉は奴隷主義ということだ」的な主張には私は同意できない。
 ただ、現代では威厳を感じさせるような漢字が実はおどろおどろしい生まれであるのを知ったりすると、くすっと笑ってしまうことがある。
 私の白川文字学の程度はそんなもの(くすっと笑う程度)であるが日常生活には何も困らない・・と浅学ぶりを居直ることにしている。
 
 なお、私自身はあまり好きではないが、近頃の子どもの名前(命名)の上位は当て字のオンパレードである。(明治安田生命発表の年度別名前ランキング参照)
 白川先生が御存命なら顔をしかめられるかも知れないが、そのクイズもどきの当て字には感心することもある。保育園、幼稚園、学校の先生も大変だろうとは同情するが・・・。
 これも、万葉仮名や訓読みを発明したご先祖の血のなせる業だろうと目くじらを立てないようにしている。

2012年2月15日水曜日

春の香り?

   早春の楽しみの一つは山菜だろうか。
 と言って、私は総じて不案内で、よく知っている妻の後ろに付いて教えを乞うている。
 その妻が、「コゴミは知らない、食べたことがない」と言う。
 いろんな本の中にも登場するし、近頃ではスーパーの山菜コーナーの常連さんの感があるのに。
 で、とりあえずビニール袋に水漬けにされているのを買ってきて、辛子マヨネーズをそえて食卓に飾ってみた。
 その姿は誠によく、食卓がいっぺんに早春の景色となった。
 という感想は来ていた子どもたちも同感だった。

 だがしかし・・・、エグミや苦味が全くない代わり、味も香りもなんにもない。水漬け故かどうかはしらないが、アクのない山菜なんて山菜でもなんでもない。ああ・・
 そう言えば、本には「アクも少なく生でも食べられる」と書いてある。異論はない。
 が、世間はともかく、我が家の山菜リストから抹消したのは言うまでもない。

 これなら、庭のルッコラの方が余程個性的で好もしい。
 イタリアンなどと限定せず、日常のサラダはもちろん、お刺身のケン代わりにも添えている。
 もうすぐ花が咲き誇るが、蕾や花の付いた花芽をお刺身に添えると景色だって言うことがない。
 あまりに気に入って、庭先を通る方々にも「齧ってみませんか」とお勧めしているが、個性的すぎるのか「また戴けませんか」と言うリピーターはほとんどない。
 『親切かお節介か』のCMの文句が頭をよぎる。
 (写真の上でクリックしてみてください。アッハッハ)

2012年2月13日月曜日

ボンボンは魔法の薬

   世の中、他愛ないことだが知らないことは山ほどある。当り前である。
 過日の新聞に載っていたウィスキーボンボンもそうだった。
 通説では、神戸のゴンチャロフが大正の終わりごろに発売したのが本邦最初とか。
 とすると、戦前からウィスキーボンボンが大好物だった私の祖母(父の母)などは相当な「新し物好き」だったのでは。

 そして、新聞で初耳だったのは永年の私の疑問と同じ・・その製造方法。
 誰もが考えるウィスキー注入方式ではなく・・・、
  ①砂糖と水とウィスキーを113℃で煮てシロップを作る。
  ②コーンスターチでできた鋳型に流し込む。
  ③シロップの表面が砂糖の結晶で覆われてくる。
  ④均等になるようにひっくり返す。
  ⑤1日ほどで表面全体が固まる。ということだとか。  へえ~。
 これを作っている丸赤製菓糸田川商店(東淀川区)年産約60㌧は、その8割以上をそのまま出荷し、卸先がチョコをつけてメーカー名で店頭に並ぶとあった。
 職業生活の大半を大阪府下の工場等を相手に過ごしてきたが、この業態もこの会社も全く知らなかった。何十万という事業場なのだから当然だろう。
 
 さて、今は「通学」しなくなった「こおつと大学」だが、私は時々ボンボンを持って行って「ボンボンOK」の皆さんに配っていた。
 ボンボンと判った上で口にする方は約半分。
 後の半数は、口の中でウィスキーが溶け出してびっくりされるがその後、なんとも嬉しそうな顔をされていた。
 ボンボンは老人施設にひと時の幸せを呼ぶ魔法の薬だった。
 もちろん実母も大好きだったので、過日の『旅行』のお供にウィスキーボンボンを入れておいた。
 
 明日はチョコレート業界の日。それもよし。聖ヴァレンティヌスよ許されよ。

2012年2月10日金曜日

寒い日は吉野葛

   皮肉を言えば・・、冬は近所の駅の躑躅(つつじ)の植込みが立派である。
 フェンスで遮られた道路から一段下がって、排水路としか言えないような小川の向こうにそれは見事である。

 それが「なぜ冬か?」と言うと・・・、五月の連休の躑躅の花の季節には、この植込み全体を葛(くず)の葉が傍若無人に覆ってしまうからで、毎年春から秋まではホームに立ちながら「近鉄の社員はこの現状を何も感じないのだろうか」と心の中で怒っている。
 秋の葛は、躑躅の代わりに藤に似た綺麗な花を咲かすのだが、少し濃すぎるというかキツすぎるので、躑躅を覆った罪を償ったとも思えない。 と言うか・・葛を花として鑑賞している乗降客はほとんどいないのではないかと想像する。

 そして私は・・植込みの手入れを私に任せてくれたなら・・・躑躅は咲き誇り・・・そしてそして、見事な葛の根をこっそり手に入れることが出来るのに・・・と一人夢見ている。


 先日、大宇陀の創業1615年(元和元年)吉野本葛「黒川本家」の社長の話を聴く機会があった。
 他の人々は、本葛と他の澱粉の違いや、本葛の和菓子や料理について、さらには本葛のイソフラボンについて等色々質問していたが、私は、根を掘る季節は何時か、どういう風に掘るのか、他人の土地の葛を掘るのに問題は生じないのか、水に晒す回数と方法は等々を質問して、周囲から怪しい視線を一斉に浴びてしまった。

 夏の葛餅もよいけれど、冬の葛湯や葛切りも非常によい。曰く云い難い味わいがある。
 先月まで、実母の入所中は「とろみ食」として随分とお世話になった。(ただし、それは片栗粉)

 上の写真は、黒川本家のものではなく家にあった井上天極堂のもの。
 下の写真は、黒川本家の葛湯。

 黒川本家社長の話を聞いて判ったこと・・・・
 葛湯は水に溶いてから温めること。お湯で溶いてダマにならないのは本葛でない。
 人工林では日光が不足して葛が採れず、奈良県下全域の雑木林で吉野葛?の根を採っている。
 掘り出した葛根は新鮮なうちに処理をしないと質が落ちる。
 水で何回も晒すのだが、一部の安物には漂白剤を使用したものがある。
 通常は10回程度晒すのだが黒川本家では香りを大事にして5~6回にしている。そのため、晒す回数の度に不純物を削り取って捨てている。
 1kgの葛根から80gほどの葛粉ができる。
 工場見学は品質管理の観点からしていない。
 高級和菓子店を一番のお客とする卸売店だが、アンテナの意味もこめて若干のレストランを出店した。
 ・・・ということだった。

 カタクリから作ったほんとうの片栗粉はほゞ消滅し、その名はじゃがいも澱粉の総称になった。もう誰も詐称だと訴えない。
 本蕨(わらび)粉を使った蕨餅は限られた高級和菓子店でないと手に入らない。
 葛粉も先の話のとおり微妙な変化をとげつつある。
 『効率一辺倒』できた社会が壁にぶちあたっている今日、体を温めつつ頭を冷やしてホンモノを見つめなおしたい。もとい、ホンモノを食したい。  

2012年2月7日火曜日

歌えずじまいの早春賦

   先日まで冬の星座を唄いながら「立春が過ぎたら早春賦の歌詞を持参しよう」「その美しい文語体の口語訳についても教授陣と語り合おう」と思っていたのだが、先月、合唱団を退団、こおつと大学も卒業した。

 妻が「ラジオで武田鉄矢氏が〔賦とは数え歌である〕と熱く語っていたが意味がよく判らない」と言う。確かに、何処の国のどの時代のどういう詩歌の賦の話かによって特徴や性格も大きく異なるものらしい。
 私は白川静先生の説く「賦とは外的に事物を描写することを主とする現実肯定と賛頌の文学である」「わが国で言えば土地誉めの文学である」という解説に共感するが、この早春賦については結構叙情的な感じもする。

 先日、珍しく鶯が枯れ木の枝に姿を曝して笹鳴きをしていたが、例によってそんなチャンスに限ってカメラを持っておらず、幸い周囲に人がいなかったから、鶯に向って早春賦を唄ってやった。

見つけた 春
  春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず
     氷融け去り 葦は角ぐむ
     さては時ぞと 思うあやにく
     今日も昨日も 雪の空
     今日も昨日も 雪の空
        春と聞かねば 知らでありしを
        聞けば急かるる 胸の思いを
        いかにせよとの この頃か
        いかにせよとの この頃か

暦の上では春になったと言うものの
             名のみで風は寒い
谷の鶯も囀りたいと思っているのだろうが
まだその時でないと声も立てない
まだその時でないと声も立てない
   張っていた氷も解けて、葦も芽吹くようで
   さあその時(春)かと思うがあいにく
   今日も昨日も雪が降る空
   今日も昨日も雪が降る空
      春だと聞いていなければ、知らないでいるものの
      聞けば気が急く思い廻らす胸の内を
      どうしろと言うのかと思うこの頃である
      どうしろと言うのかと思うこの頃である    *歌詞と意訳はネットからの丸写し

 以下、孫引きになるが、この歌は大正2年の新作唱歌に掲載されている。作詞の吉丸一昌は安曇野の風景に感動して作ったと言われている。安曇野には「早春賦の碑」があり、毎年4月には「早春賦音楽祭」が開かれている。作曲者中田章の子である中田喜直は季節の歌を色々作ったが、父とこの歌を尊敬して春の名の付く歌を作らなかったという。
 
 この歌の出だしはあまりに有名だが、心の中で『「時にあらずと声も立てず」と書いてはいるがそれはおかしい。囀(さえずり)前の鶯はチャッチャッチャッチャと笹鳴きがうるさくて仕方がないのに』・・・と思うのは、きっとクソリアリズムに捉われたバードウォッチャーの心の狭さなのでしょう。
 詩心のない私などは、・・暦の上では21世紀も相当過ぎたというのに、未だ20世紀の亡霊のうろちょろするのを見る薄ら寒さよ・・というような、政治や社会に対する無機物に似た散文を連想してしまうのが我ながら情けない。
 とまれ早春賦である。言霊(ことだま)をもって春を讃え、土地を誉めよう。

2012年2月3日金曜日

善哉此汁(よきかなこのしる)

   節分の朝(まだ夜中だが)に、とりとめもない思い出話を書く。

 今は昔、節分に、職場では厄年(前厄、本厄、後厄)の職員がお金を出し合って善哉を炊いて、他の職員はおろか来訪者にまでふるまっていた。
 「厄落とし」とか「厄払い」と言っていた。 
 「成果主義」などという言葉のなかった時代のことで、誰もがチームワークを心がけていた「今は昔」のことである。(こんな精神が「今は昔」になって良いことはないのだが・・・)

 さらにその昔の堺では、この善哉のふるまいが町中で行なわれ、知り合いはもちろん、行きずりの人々にもふるまえばふるまうほど厄が落ちる(小さくなる)と言われていた。
 だから反対に、親は、「善哉のふるまいは他人(ふるまう人)の厄を引き受けてしまうから誘われても食べないように」と子供に注意するのだった。
 つまり、厄年側は出来るだけ多くの人々に食べさせようとし、非厄年側は出来るだけ食べないように逃げるわけであるから極めてデリケートな高等?行事であった。

 子供の頃、小学校の同級生の父親が本厄だったらしく、同級生の多くが誘われてその家で「食べさせられた」ことがある。
 子供自身にとっては美味しいお八つで文句もないのだが、後でそれを聞いた親たちは微妙に嫌がった。

 そして、その家は漁師の網元であったから、その善哉のふるまいは非常に大規模なイベントで、大人用には善哉のほかに御酒とアテ(肴)もたっぷり用意されていて、子供たちにもアテ(肴)がいっぱい配られたのだが、そのアテ(肴)の中の一つは小型の河豚(ふぐ)の煮付けだった。
 小学生といえども「河豚は中(あた)る」ことは知っていたのでびっくりしたが、本職の漁師たちがわんさか食べているのだから「これは食べてみる価値がある」と私が挑戦したのはいうまでもない。
 思えば、私の各種食材へのあくなき挑戦の起源はここにあったのかも知れない。
 
 挑戦といえば、その後十分大人になってから、別府で河豚の肝をたっぷり食する機会があった。
 大分県では、肝の提供が条例で禁止されていない。
 私の持論だが、肝と白子に不味いものはない。
 これはほんとうにおいしかった。
 ただし、ブログの読者は禁止されている都道府県では食されないよう。食したければ別府温泉へ。

ネットから
 また、佐渡の蔵元の親父が個人で造った河豚の真子(まこ)の粕漬けも戴いたことがある。(佐渡以外では石川県の限られた地区だけに糠漬けがある。真子(卵巣)は肝に倍する猛毒である。)
 これは、彼の小泉武夫先生が「この地球上で最も珍奇な食べもの」と断定されている。
 『猛毒の卵巣を四~五年かけて言い伝えられてきた発酵技術で無毒化した』もので、世界に類を見ない執念の所産である。解毒の正確なメカニズムは今現在でも不明らしい。
 近所の人が、「こんなのを戴いたのだがウチではよう食べん。長谷やんさんなら食べてくれるやろ。」と言って持ってきた。
 正直に言うと、このときの味はさすがに全身に力が入ってほとんど覚えていないが、相当な大きさであったものを結局完食した。

 ・・・節分から脱線しつくしたブログになった。
 今夜は相当以前に注文済だった「恵方巻」の丸かぶりをする。
 もちろん大きな声で「福は内 鬼も内 戌亥の角にどっさりこ」と唱えて豆を撒く。
 明日は立春、元気を出そう。


   2月4日立春
 右の写真を追加