2011年9月29日木曜日

大発見か大誤解か クロツグミもどき

 夕方にイオンの本屋に向う途中、ポピヨンピョロピョロと複雑な鳴声が聞こえてきたので顔を巡らせて探しまくったところ、ショッピングモールの外壁に見たことのない黒っぽいツグミを大発見。
 周囲の穏やかに流れる日常風景から一人はみ出して興奮に次ぐ興奮。

 安物の携帯では撮れないので急いで家に引き返して(往復40分)カメラにおさめ、マミジロかクロツグミに違いないが先ずは図鑑で確認・・としたものの、第1に眉(マミ)がないからマミジロでなし、第2に、嘴も目の周りも黄色に見えず、しかも腹が白くないからクロツグミとも言えなくなった。エエ~
 色合いはヒヨドリの様でもあるが、スタイル、飛び方、鳴声が全く違う??
 全く弱った。解からない。

 数種類の図鑑と照らし合わせて辿りついた結論は、イソヒヨドリ(雌)。
 そして、そして、よくよく読んでみると、先の冬から春のブログで「これまで見たことのない鮮やかなアカハラだ」と信じきって書いていたのも実はイソヒヨドリ(雄)らしいと思い至った。ガ~ン・・・・。
 海なし県である奈良(京奈)のここまでイソヒヨドリがやってくるか?と、頭の一部では今でも疑っているが、比較的権威のある図鑑で見る限りイソヒヨドリらしい。ご存知のお方は是非とも御教示いただきたい。
 望遠レンズのカメラと双眼鏡と鞄を提げて、息を殺して身じろぎもせずにショッピングモールの壁を凝視している姿は異様らしく、丁度自転車で通りかかった妻が「怪しいおっさん発見」と言葉を発して帰って行った。
 『天高く人生なんと恥多き 鈴木真砂女』の句に激しく共感。

2011年9月28日水曜日

上方文化は おもてなし

 26日のブログでお約束のとおり(誰も約束なんかした覚えはないだろうが)「吊るし唐辛子」を玄関に吊るしてみた。秋の陽にキラキラと輝いている。
 心の底では「どうだ」と言わんばかりに飾ったのだが、人に尋ねられたなら「干してますねん」「ちょっとしたお守りで・・・」と答えようと思っている。
 多くの大阪人は、楽しい話題は独り占めにできずにできるだけ多くの皆さんに喜んでいただこうと発想し実行するのである。「おもてなし」を行動で表すのが上方の文化だと思っている。
 言い訳する気はないが、それを「いちびり」だとか「自己顕示欲」だと評論するのは的外れである。

 もてなしの庭先の彼岸花が満開だ。
 去年は無茶苦茶に開花が遅れたが、今年は暦どおり彼岸の中日に開花した。
 通行の方々も100%?注目して歩いていかれる。
 既成観念で「庭にこんな花を植えて・・」と思うか、フレキシブルに季節感や棚田の原風景をイメージするかは通行人の自由である。
 確かなことは、彼岸花を前にすると私と通行の方々との会話が弾むことである。
 「立派なお花ですね」「いやあ変な庭になりまして・・」と言うような遣り取りだが、多くの方はその後ニコニコとして黙って歩いていかれるから、やっぱり、心の中では「変な庭やなあ」と思っているのである。

2011年9月26日月曜日

見た目も鮮やかな鷹の爪

 稔の秋。スノウさんから鷹の爪を戴いた。
 全体としての猿害の中、鷹の爪だけは、さすがのお猿も敬遠したため豊作だったらしい。
 「収穫したてのため乾燥させて・・」とのメモがあり、折角だから一部を「吊るし唐辛子」風に作ってみた。
 近くに浄瑠璃寺や岩船寺で有名な当尾(とおのう)の里があり度々散歩のように出かけるが、ここの無人販売所に吊ってある「吊るし唐辛子」を見て第一村人に「あれは何ですか?」と聴いたところ、「厄除けです」との返事であったことを思い出した。
 乾燥が進むと縄からぽとりと落ちるのを「厄が落ちた」とか「身代わりになった」と考える風習は結構広い地域で知られているようで、韓国、台湾、中国でも「お守り」になっているらしい。
 我ながら(といって99%は妻の作品だが)立派な出来栄えなので、室内装飾でも悪くはないが、乾燥がてら道行く人々に見えるところに飾り直そうかと思っている。
 

2011年9月25日日曜日

昴はさざめく

 ようやく秋の空・・・と言っても夜空のことだが、 夜更けの東の空に昴がボンヤリと戻ってきた。(と、とりあえず言っておこう。)

 非常に恥ずかしい話だが、私はこれまで昴星を他の星と誤認していた可能性があることが今夜解って、半分ショックで、半分は遅まきながらの(6人娘の)発見に感激している。・・「今頃何を・・・」とお笑いください。

 正確に語れば、これまではオリオンの肩から伸ばしていって昴らしい星を見ていたが、(それはそれで正しかったのかも知れないが)、今夜は、秋空のためオリオンが出てこず、星座早見盤や星座案内の本と実際の空を何回も見比べて、オリオンに頼らない見つけ方を何回も試みているうちに、「あっ、実はこれか」と、今までの誤解?が一瞬に吹っ飛んだわけである。そして、眺めるうちに「6人娘と言われるだけのことはある」と心の底から納得した。

 何のことかと言うと、私は、先日眼鏡を更新したので乱視が矯正され、昴が星ではなく文字どおりの「プレアデス星団」であることが、はっきりと見えて「少しがっかりで大きな感激」を受けたということ・・・・で、おかげで昴は「6人の怠け者の娘」というアイヌの伝承が納得できるようになった。つまり、今日の感激は昴の6人娘をはっきりと視認したということである。
 ×8~×20の双眼鏡ではさらに「星団」がよく見えて6人娘どころでなくなった。
 (要するに眼鏡の更新と双眼鏡の持ち出しが昴確認の決め手だった。)

 それにしても「星の数ほど」限りない星々の中から「星は昴」と選んだ清少納言は只者ではない。平安京の空が澄んでおり、清少納言が近視でなかったことだけで選べるものではなかろう。この女性はいくら誉めても誉めすぎることがないというのが、今夜の空からも実感させられる。
 
 谷村新司の「昴」は老朗介護施設でも人気の歌だ。
 いつか、入所者の皆さんにアイヌの昔話やギリシャの詩人の話をしてみよう。

2011年9月22日木曜日

foxtail grass

              構音障害という症状がある。
 構音障害の方は、頭の中では正しく「眼鏡」と判断していても口からは「傘」というように声が出てしまうのであり、決して思考が無茶苦茶になったわけではない。
 そういうことについて、相当昔のことになるが、脳外科の先生に研修を受けたときの記憶が、私には比較的鮮やかに残っている。
 そして、的を射ているかどうかは知らないが、これに近い感覚(頭の中では的確に判断されているに違いないという感覚)を老朗介護の現場(というよりも周辺)で実感することが時々ある。
 だから、老朗介護や認知症について私は全くの門外漢ながら、私のポリシーとして、親や保育士が幼児に話すような態度は一切とらず、入所の皆さんとも大人同士の会話、一緒に子供に返って遊ぶような態度を常に心がけている。

 という偉そうな能書きは置いておいて、今日は実母の施設に盗人萩(ぬすびとはぎ)とエノコロ草(猫じゃらし)を山のように持ち込んで、一緒に子供になって(決して先生にはならずに)遊んでみた。
 (介護の施設に綺麗な花束を持参される方は多いが、雑草を持参するのは私だけのよう・・・)(だから高価な花束より元手0円の方がサプライズになって格段に喜ばれるというのも実に可笑しい。)
 そして、ひとしきり盗人萩のくっつけあいをした後に、エノコロ草をニギニギして毛虫のように動かせてみたところ、スタッフも含めこれが意外に新鮮に驚かれ、「本物みたいに怖いわ」と言う方も出てキャーキャーと大いに盛り上がった。(このニギニギ毛虫の好評は想定外・・・だった)
 経験的に言えば、今朝のような天気の悪い日は部屋全体が鬱になる傾向があるので、ひと時ではあるが多くの入所者が子供時代にタイムスリップして、不自由な手で毛虫を出してみたりして喜んでくれたのは嬉しい。
 帰り際、何人かの入所者から「また来てね」とお願いされた。

 蛇足ながら、エノコロとは犬の子のことであり狗尾草と書かれる。そして英語では foxtail grass(狐尾草?) 。ニギニギの毛虫よりも、こういう解説を喜ばれる方もおられるので、老朗介護(実はただの面会)も「だんどり八分」である。

2011年9月19日月曜日

美しくも悩ましい盗人萩

 木偏に春が椿なら、草冠に秋は萩である。
 柳宗民氏の本によると「最近は海外でも日本庭園が大流行だが、萩を植えられているのは見たことがない。」「これは西洋人と日本人の美意識の相違によるものだと思う。」と書かれている。
 海外にだって風情を感じる人士は居るに相違ないが、マスで語れば四季のはっきりしたこの列島(と言っても南北に長過ぎるが・・)に特徴的な美意識なのかも知れない。私にも異存はない。とりわけ古刹に萩はよく似合う。

 しかしながら、花の美しさではそれほど見劣りはしないものの、我が散歩道の盗人萩(ぬすびとはぎ)だけにはホトホト閉口している。
 市役所の草刈り後一番最初に成長してきて、「我が世の秋」を謳歌しているのも憎らしい。
 ところで、増村征夫著の図鑑に「和名は果実の形を盗人の足跡に見立てたもの。」とあるのには驚いた。
 私も妻も、しらばっくれる盗人に「観念しろやい。おめえの裾の萩の実が忍び込んだ証拠でい。」と何故か江戸弁の芝居を想像させるほどしつこい「ひっつき虫」故の語源であると信じていた。
 これって全くの誤解だったの????
 読者の皆さんの感想をお伺いしたい。

2011年9月18日日曜日

日本の祭は盆踊り

 義母の入所している施設の敬老祭が、雨が降ったり止んだりの悩ましい空模様の下、屋外で開催された。
 できるだけ元気よく賑やかにと屋外開催を決意した施設の心意気には拍手。(実際には入所者も家族も大変だったが・・・)
 しかし、進行の手際の悪さ、舞台上のスタッフの中途半端な照れの数々に、見ていてどうも苛々し、もう少しで仕切りたくなってしまった自分が可笑しい。
 そして、私なら大歌声喫茶と盆踊りをメーンに企画するのになあ!と考えているのも又可笑しい。
 
 「家族介護が本人にとって一番幸せだ」と仰られる方もいる。
 しかし、世の中はそれほど単純ではないはずだ。
 プロ=施設の実力を素直に実感するのも悪くはない。
 炭坑節の輪の中で、入所という選択は間違っていなかったとしみじみと再確認した。
 家族介護で介護うつ寸前の方はおられないだろうか。このブログが、施設利用も悪くないなあという気になる一押しになるならそれもよい。

2011年9月15日木曜日

薬師寺おそるべし

 奈良の御寺(みてら)の魅力というと、時の移ろいが醸しだした「侘び」や、それ以上にまるで朽ちる寸前であるかのような「寂び」に見る、他所ではなかなか味わい難い美しさというのが多数意見だろうし私にも異存はない。
 しかし、歴史の検証にとってこの感傷は往々にして無意味どころか邪魔であり、実際、ロマンといわれる感情や多くの講談話は数々の歴史を見る眼を曇らせている。・・まあ、私だけかも知れないが・・・・。
 例えば、飛鳥京、藤原京、平城京は必死に大陸に追いつこうとしていた大都市(当時の近代都市)だったので昔から旧都であったり宮趾であったわけではないし、それ故に、都に配された事実上国立の御寺は、心静かに勉学したり国家の安寧を祈念していたというよりは、宗教と技術が不可分であったその時代にあっては、つまり祈祷や呪詛(じゅそ)がある種の暴力として現存していた下では、一面では軍事基地的な暴力装置あるいは最新兵器そのものではなかったかと考えさせられる。
 私が、そういう「目から鱗」のヒントを得たのは、小笠原好彦先生の「本薬師寺の造営と新羅の感恩寺」という論文だった。
 誤解を恐れず荒っぽく言えば、
この御方はご存知である
 薬師寺の伽藍配置が独特なのは何故か。
 それが多くの百済系の伽藍配置でも唐のそれでもなく新羅系のものであるのは何故か。
 それは他の大寺の伽藍配置に比べ、落雷・火災対策としては古臭いものだが、それをあえて採用しているのは何故か。
 この新羅系の伽藍配置は、百済王家の後裔が枚方市に建てた百済寺(注)もそうであるのは何故か。(注:大阪府における二つの国の特別史跡のうちの一つ もう一つは大阪城) 
 
 ・・とすれば問題の所在は新羅にある。
 新羅では、文武王が倭兵の侵攻を鎮めるために、わざわざ海岸に倭を睨んで感恩寺を建てた。(三国遺事)(感恩寺は682年神文王が完成)
 そして、それは663年に白村江で唐・新羅連合軍に完敗していた倭にとっては緊張の糸の張りつめていた時代、・・各地に山城が築城されていた戦争前夜に似た微妙な冷戦の時代であった。
 故に、本薬師寺と移建された薬師寺は、天武天皇が680年に皇后の病気平癒のために発願したものではあったが、喫緊の軍事・外交課題である感恩寺の「暴力」に的確に対抗する意図が重層的に含まれたものであった。
 そのためには、感恩寺と瓜二つでなおかつそれよりも拡大した伽藍配置の御寺でなければならなかったのだ。
 つまり、新羅王の魂魄を込めたビーム光線が感恩寺から発射されているのを受けて、それを相似形で強化して光線返し・呪詛返しをしていたのが薬師寺だったのだ。
 このように考えると、百済王の後裔が万感の「恨」を込めて新羅形式(感恩寺と相似形)で百済寺を建立した謎も氷解する。

 以上は、独断で私がまとめた感想である。
 文献史学だけではここまで言い切れないが、考古学と二重写しにすると目から鱗の歴史が浮かんでくる。
 とすると、往々にして歴史家が馬鹿にしがちな、再建された薬師寺西塔、平城京朱雀門、大極殿等を見ながら彼の時代を振り返るのも悪くはない。
 現代人が、・・・少なくとも私が抱いていた「祈り」のイメージなどを遥かに超えた当時の暴力的な呪詛合戦を理解できないと、南都の御寺の正確な歴史は把握できそうもない。
 柿食えば~  もいいけれど、こんな論文を読んで南都の古代に想像を羽ばたかせる夜も楽しい。

2011年9月13日火曜日

采女さん ありがとう

 
 奈良の観光地のど真ん中にあるのに、仲秋の名月の日を除いて1年364日間はお参りのできない神社。
 鳥居の向こうにお社が後ろ向きに建っている神社。
 こんな不思議な采女神社に、子供達の良縁の御礼に行って来た。
 猿沢池の采女祭。
 身近な地に、こんな天平文化の再演が嬉しい。
 秋の七草の花束と月見団子を購入して帰り、名月の写真を撮った。
 

 なかなかに好いお月見だった。 

2011年9月12日月曜日

月に叢雲 花に風 はは~

 今夜は仲秋の名月ということで、今朝は実母の施設でお月見談義に花が咲いた。(ほとんど筆談)
 兎について、中国では大昔から月に蛙がいると見ていたらしいが、世界中の人々が何を見ているのかシスターに調べてもらおう・・とか、
 十五夜よりも十三夜を好む日本の風習はチョッと素敵じゃないですか・・とか、
 そして、皆さんの「お月見団子」はどんな形ですか・・とか・・・・・
 談義に加われる方は数人だが、私の書いた大阪のお月見団子は予想外に知られていなかった。

白い団子部分が月。
餡子が叢雲。
(画像はネットから)
 すると実母が、これは「月に叢雲」を表し、よいことはそうそう続かないという教訓だとおもむろに訓示した。
 私も聞きはじめのことだったし、「キヌカズキを模したもの」あたりが定説だったように理解していたが、つまり、この説の適否は別にして、なにしろ101歳の訓示であるし内容も人生訓であるものだから、私やスタッフはもちろん、90歳代や80歳代の入所者も一様に「はは~」とひれ伏したのは言うまでもない。
 ただ介護の実習生だけは、今日はお月見ですか、お月見団子ってあるんですか、・・と、月よりも大きな口をあけて不思議がっていた。 ああ~

2011年9月10日土曜日

スパーリング清酒の菊酒

 道教に由来する「奇数こそ陽」の大思想からすると9月9日の重陽の節句ほど大事な日はないのに・・・、今では、元旦、雛祭、端午の節句、七夕に比してすっかり目立たなくなってしまったのは、ひとえに商業(コマーシャル)ベースの素材になりにくかっただけのことであろうか?
 実際にイオンモールでは、「菊の花はありませんか?」と尋ねなければ所在が判らないほど店側には“意識”されていなかった。
 おかげで、我が家では、不老長寿の仙薬でもある菊酒を俗世界の邪念に邪魔されることなく楽しくいただいた。(スパーリング清酒に菊の花を浮かべただけのことであるが)

 そして翌日、「一日遅れのお祝いをしよう!」と言って二つの母の施設に菊酒を持参した。
 義母の施設は施設の方針により義母の部屋で飲んだだけだったが、方針がおおらかな実母の施設では、朝からホンの少しずつだが何人かで乾杯をし、まるで小原庄助さんばりの朝酒宴会が出来上がった。
 御酒の回った実母は、目をつぶって、 ~~ミモザ咲く~老人ホームの二階にて~パンを握りて~菊酒を飲む~~という感じの即興の和歌らしきものを朗々と詠いはじめ、部屋中の人を驚かせた。
 さすが、菊酒の薬効あらたかなり。

2011年9月8日木曜日

旅立ち近い燕たち

 ようやく猛暑も一段落したので、燕たちが南方遥かオーストラリアに帰って(行って?)しまわないうちにと平城宮跡まで出掛けてきた。

 初夏頃まで、子育てのために人家の軒先で過ごしてきたこの地の燕たちは、どういうわけか8月中旬頃からここの葦原を塒(ねぐら)にする。
 同様の葦原で有名なところには淀川がある。
 塒入り(ねぐらいり)という。
 求婚、子育ての次の大事業である大旅行(渡り)の打ち合わせと予行演習のためだろうか。

 平城宮跡を塒にしている燕は約3万羽といわれている。
 この3万羽の燕が、夕刻まではほとんどいなかったにも拘らず、日没直後から続々とやって来て(帰って来て?)、ヒッチコックの映画どころでない集団旋回を演じ、人間の頭の上、顔の横を飛び回り、ヒュヒュヒュという風を切る音までが耳に入ってくる。
 そして一瞬葦原にもぐり込み、あとはチュチュチュチュという声だけがエンディングソングのように届いてくる。
 この“一日に15分間だけのビッグショー”の感動には、テレビや映画やUSJでは絶対に味わえない心の満腹感が付いてくる。
 足下の秋の虫も超一級なのだが、この時ばかりは助演賞だ。

 今年は、ブログにも書いたが、燕の空家を雀が横取りしたので、「燕が帰って来ない年には不吉なことがある」なぞというつまらぬ「ことわざ」が脳裏をかすめたが、こうして素晴らしい「塒入り」と出会えたので十分にチャラだろう。

 この燕たちは、日本の冬をオーストラリアの教会辺りで過ごして、途中インドネシアのモスク辺りで休憩したりして、そして、春には南都のお寺辺りに帰って来て、イマジンではないが、人間たちが口角泡を飛ばして文明の衝突などを論じているのを空の上から見て笑うことだろう。

(写真の上でクリックをすると写真が大きくなり少しは燕が判ります。)

2011年9月6日火曜日

988円のマグカップ

 実母は入れ歯が合わなくなっているのでミキサー食である。
 専門家である施設のスタッフに入れ歯の相談をするのだが、「直ぐに合わなくなって無駄ですよ。」と流石に専門家はクールである。
 食事の困難は体力低下と直結するが、そこを静かに見守るのがターミナルケアなのだろうか。「ターミナルケアって何ですか。」と聞いたとき、「ターミナルは終着駅です。」との回答は名答だった。(まあ、この辺は深刻に読まないでください。)
 
 そんな状況なので、栄養補助のためにほぼ毎日スープを持参しているのだが、これはこれで直ぐに咽(むせ)てしまう嚥下(えんげ)障害に困っていた。
 そこで、飲み口の狭いマグカップではどうしても上向き加減になり咽やすそうなので、口の広い文字どおりカップ型のマグカップを買ってきた。

 買ってから知ったのだがこれがアートマグというもので、カップの周囲に好きなアートを挟み込めるものだった。
 そこで、本人が嫌がるかなあ?と、少し逡巡したが、夏祭りの時の本人の写真を挟み込んで持参したところ、本人も周囲も大笑いで、「この写真を麒麟ビールに買ってもらおう。」というジョークまで飛交った。
 
 ターミナルケアの施設で笑いをとるのは至難であるが、これだけの笑いをとったのだからこのアートマグ988円は安かった。

 調子に乗って義母のところにも「義母がピンクレディーのUFOを踊っているときの写真」を付けて持っていったら大いに喜んでくれた。よかった。

 老朗介護に一番よく利く薬は“歌と笑い”だと・・・今頃になって気がついた己が鈍感さの方に笑ってしまっている。

2011年9月4日日曜日

石のカラト古墳で考える

 よく行く散歩コースの一つに「石のカラト古墳」がある。
 7世紀から8世紀初頭の超一級の終末期古墳で、国の史跡名勝天然記念物だが草刈等の手入れはあまりされていない見映えのしない広場である。
散歩道の石のカラト古墳

 奈良県奈良市と京都府木津川市の境界線の真上のため、北側が草刈されても南側がそうでなかったり、その反対であったりして悩ましい。

 盗掘されているので遺物は少ないが、金銀製の玉、銀装の太刀の金具、金箔片等が見つかっており、豪族の墓というよりも、貴族乃至皇族の墓かとも言われている。
 被葬者の推理をしている分には楽しい古墳である。

 この、全国でも10に満たない珍しい形式である『上円下方墳』を見て連想するのは、明治、大正、昭和各天皇陵である。何れも上円下方墳である。

 これは、明治天皇(桃山陵)の際に、「古式に範を採った」と言われているが、・・・上円下方墳と信じて参考にしたらしい山科の天智天皇陵は、今では実は八角墳だろうとされており、母親の斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)が八角墳とほぼ確定した今日から見れば、例の天皇陵の比定問題と併せ、この分野の議論の乱暴さは現下の原発安全神話を思わせる。
 そう言えば、昭和天皇の葬儀の諸々も古式に則ったと喧伝されたが、鎌倉時代の四条天皇から明治天皇の前の孝明天皇まで15代の葬儀は仏式で行なわれ泉涌寺に墓所があるのであるから、常識的に言えば古式とは仏式ではなかろうか。
 それを跳び越えて古代を再演するのも否定はしないが、鎌倉から江戸時代までの宮中が全面的に神式であったかのように歴史的事実を捻じ曲げ、廃仏毀釈の狂気を追認してはいけない。
 私としては、アジアの近隣諸国民や私たちの父母、祖父母に悲惨な戦時体制を強いた大日本帝国下で突如先祖返り(それも正確でない先祖返り)をした上円下方墳は止めてもらいたいと思っている。
 古墳も宮中の諸儀礼も国民的な文化遺産でもある。
 天皇家等の祖先のお祀りと科学的見解の両立を当たり前のこととして議論する姿勢を宮内庁には求めたい。
 権力で科学を封じ込めようとすると、何れ原発問題のような悲劇的結果になるだろう。

 「石のカラト古墳の散歩からそこまで言うか」という声が聞こえてきて、墓穴を掘りそうなので筆を置く。

2011年9月2日金曜日

判り難い道路標識

 数年ぶりで滋賀県までクルマで走ったが、道路事情が一変していることに驚いた浦島太郎だった。
 元々土地勘・地図勘はいいほうだという自惚れもあり、地図の下調べもナビもせずに昔の記憶と勘だけで出発したのが悪いのだが、それにしても、主に高速道路出入口等の道路標識の判り難さにはほとほと閉口した。何回本来の道路に乗り損ねたか知れない。何回であるかは恥ずかしくて言えない。

 その夜、やって来た息子に、そのドジさ加減を妻は面白おかしく報告したが、息子は「複雑な道路標識を一瞬に判断できないのは認知症が始まった証拠や」と言下に託宣した。そして、全面的に反論も出来ず一笑に付す事も出来ない確かな心当たりにぞ~っとした。

ネットから

 だが、名誉のために言っておくが、地図にある「西大津バイパス」。・・京都東インター周辺の道路標識には数種類の異なる表示ばかりでええかげんにしなさい。・・と言いながら、逆走老人の弁護をしたくなったのも事実である。

 私は自分のことを高齢者などと思っていないが、自覚のない老人こそ社会の迷惑なのかもしれない。そう言えば、道路の曲がり間違い、渋滞の回避失敗は数年前から始まっている。