2017年9月21日木曜日

空飛ぶエビフライ

 奈良公園のエビフライのことは何回か書いた。
 ムササビが食べた松ぼっくりの食べ滓がそれ(エビフライ)だが、それは、そう言われればほんとにそう見えた。

   ところで、今日ご紹介するのはホシホウジャク(星蜂雀)。これを『空飛ぶエビフライ』と聞くと、これもナルホドと感心する。尾の曲がり具合などなかなかだ。
 ただ、奈良公園のエビフライよりは少し格が落ちるかも。

   蜂のような雀蛾(スズメガ)なので蜂雀(ホウジャク)とは解りやすい。
   星は翅の黄色い模様に由来するのだろうが、ただ探してはみたが文献等にその説明は見つけていない。


   蛾ではあるが昼行性で、しかも昆虫界でも群を抜く俊敏さだ。
 そして、オオスカシバ同様ホバリングをしながら花の蜜を吸う。だからブラジルでは「ハチドリ蝶」と呼ばれていると書かれている。

   昆虫界には女王だとかスターと呼ばれる美しい昆虫も少なくないが、その若々しい俊敏さでホシホウジャクはモモクロ並みの昆虫界のアイドルというのがふさわしい。

 怪獣モスラはヤママユガがモデルらしいが、スズメガはヤママユガの兄弟のようなものだ。
 モスラの特性にホシホウジャクの俊敏さがあったなら、人類はもっと困っていただろう。最強の怪獣だったかもしれない。
 東宝のスタッフはホシホウジャクを知らなかったのだろう。

 私は小さい頃、オオスカシバのことをキング。ホウジャクのことをクイーンと勝手に名付けていた。
 それほど好きな昆虫である。

 昔、探偵ナイトスクープでハチドリの子どもを見つけた!と話題になったのは、このホウジャクかオオスカシバだった。
 確かにそのホバリングを見ていると感動する。(えっ!感動しませんか?)

    秋日和蜂雀の名は季語になし

2017年9月20日水曜日

拉致問題のこと

 拉致被害者・蓮池薫氏の兄で「救う会」元事務局長の蓮池徹氏が2015年に講談社から出版した本の題名が『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』だ。
 内容を要約すると、2002年に5名が日本に戻ったときに官房副長官だった安倍晋三や内閣官房参与だった中山恭子(現・日本のこころ代表)は「一時帰国だから北へ帰れ」「いつ北に戻るのか」と指示をし、それに反して「戻れば二度と帰国できないから北へは帰らない」と行動したのが該当被害者と家族であった。
 そういう事実があったにもかかわらず、その後安倍晋三は5名の帰国を自分の手柄話にして、さらには被害者と家族を自民党の選挙の応援にかり出したり改憲・右翼の集会にかり出した。
 こうして、「対話のための対話はしない」という対北政策で高齢になった被害者と家族の願いは全く放置され、拉致問題はいっこうに進まないまま政治利用された・・というものである。

 この拉致問題について、思わぬ人物がよく似た批判をしている。
 人物は、「新しい歴史教科書をつくる会」初代会長で、バリバリの右翼の論客。西尾幹二氏である。
   西尾幹二氏は、週刊誌や月刊誌で「私は単純に安倍首相の人間性に呆れ、失望しただけです」と、安倍首相を右側から痛烈に批判している。
 そして、「拉致のこの悲劇を徹底的に繰り返し利用してきた政治家は安倍晋三氏だった。(中略)主役がいい格好したいばかりに舞台にあがり、巧言令色、美辞麗句を並べ、俺がやってみせると言い、いいとこ取りをして自己宣伝し、拉致に政権維持の役割の一端を担わせ、しかし実際にはやらないし、やる気もない。政治家の虚言不実行がそれまで燃え上がっていた国民感情に水をかけ、やる気をなくさせ、運動をつぶしてしまった一例である」と述べている。

 あえて言えば、安倍晋三にとって被害者の救出は興味の外である。
 興味の対象は、勇ましい言葉を並べて自分を飾り立てて政権支持率に誘導することだけである。
 Jアラートで国民に「怖いぞ怖いぞ」と煽りながら、自身は外遊し、はては衆議院を解散するのである。
 こんな大嘘つきが権力を握っているのだから、保革の立場が違っても、およそ良識人なら今度の選挙では安倍自公政権にレッドカードを突きつけなければならないだろう。

    秋風やアオマツムシは口ばかり

2017年9月19日火曜日

針小棒大

 孫の夏ちゃんが図書館で借りてきた「手品の本」を持ってやって来て、いくつかの手品をやって見せてくれた。
 そのうちのひとつに、私たちに向かって「後ろを向いている間に十円玉を右手か左手に握って!」「握った方の手を上にあげて1,2,3と10まで数えて!」というのがあった。そのあとで夏ちゃんが振り向いて私たちの十円玉を握った手を当てるという手品?なのだが、夏ちゃんにはこれが上手く当てられなかった。
 そこで、そのページだけ私に「読んでもよい」というので読むと、本には『片方の手だけ上にあげていると血が下に下がるので、目の前に突き出された両手の内、血が下がって白くなった手の方に十円玉が握られている』と書かれていた。

 しかし、夏ちゃんのお父さんの手は日焼けしていてどちらも黒い、お祖母ちゃんは貧血でどちらも白い、お祖父ちゃんは高血圧でどちらも赤い・・・で夏ちゃんは当てられずに困ったという次第。
 こんな「手品の本」のような解説は世の中にはいっぱいあるが、針小棒大も度を過ぎれば嘘にならないか。

   北のミサイルが『日本領空にも当たらない』はるか宇宙空間を横切ったことで、テレビをジャックしてアラームを鳴らして頭にカバンを乗せさせるのもそうではないか。
 ちなみに、宇宙空間でいえば、日本の上も北の上も毎日アメリカの軍事衛星が飛んでいるぞ(北のミサイル自体を肯定しているわけではない。日本政府の扇動ぶりを言っている)。

 Jアラートで国民には「怖いぞ怖いぞ」と煽っておきながら、首相は話題の夫人と外遊し、今月末には衆議院を解散するというのだから、このJアラートがどれだけ嘘っぱちであるかということを安倍晋三は証明してくれた。

 そんな針小棒大が許されるなら、こうなったら私も言うぞ。
 私はこの間登山をした。年齢に構わず山に登ってきた。現に登頂証明書もあるぞ。どうだ。

  茶臼山強者共と蝉の声

2017年9月18日月曜日

北のミサイル

 安倍内閣を支える日本会議等右翼の「歴史認識」は、「15年戦争は日本の侵略戦争ではなく、日露戦争に勝った日本をアメリカが警戒し、大東亜共栄圏構想に過剰に反応し、無理難題の経済制裁で戦争に引きずり込んだ」というものである。
 歴史の科学に堪えない戯言ではあるが、そのスピーカーが「北への圧力・制裁」と「軍事力」しか語らないのは、百歩譲って彼らのロジックに立つならば、「不当な制裁であっても北を戦争に引きずりだすべきだ」というのだろうか。支離滅裂とはこういうことを言うのだろう。
 白人至上主義を擁護したトランプにして見れば、日本はイラクやシリア同様の異邦人の国だから、安倍の言質をいいことに、何かのイレギュラーから戦争になる可能性がある。現代一番の危険性はここにある。

 さて、平成6年(1994)、クリントン米大統領が北朝鮮の核施設を空爆で先制攻撃する作戦を6月16日に決定したことがある。
 その折の米軍中枢のシミュレーションは、▲開戦90日で52千人の米軍が被害を受ける、▲韓国軍は49万人の死者を出す、▲在韓米軍と在日米軍の約8割が被害を受ける、▲米国人8万~10万人を含め民間人から100万人の死者が出る・・というものだった。
 この作戦は、訪朝したカーター元大統領に金日成が核凍結を約束したことや、金泳三韓国大統領が「やめてくれ!韓国軍は一兵たりとも動かさない」と直談判したことで中止された。
 
 上記のシュミレーションを現状に合わせて修正すれば、現代は開戦90日もせず、数日で終了するように私は思う。
 勝敗でいえば、アメリカが勝ち、北朝鮮は圧倒的庶民を含めて壊滅する。
 同時に北が瞬時に対抗したミサイルと核兵器、更にはサリン、VX等の化学兵器によって、韓国と日本もほとんど廃墟となり、原発由来の放射線被害でアフガンやシリアに比べることもできない「この世の終わり」が出現する。
 これは精神の強気、弱気の問題ではなく冷静な分析結果だろう。
 被害は1994年の比でもない。

 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という諺があるが、アメリカのパシリである安倍晋三は、軍事力をちらつかせて脅せば(自分のように)金正恩は手をあげると思っているが、かつての日本陸軍が「本土決戦」を撤回しなかったように、金正恩には屈服の余地はない。その選択は金正恩の死を意味する。もちろん北に持久戦の国力はないから、結局、やぶれかぶれの瞬時の対抗しかあり得ない。
 そしえ、金正恩は死ぬだろうがあなたも私も家族も知人も死ぬ可能性は低くない。

 アフガンのペシャワール会中村哲医師は、武器ではなく灌漑技術で、アメリカもロシアも実現できなかった「平和」を築きつつある。
 それは夢物語ではなく明々白々な現代の事実である。
 軍事力ではなく、内政不干渉の原則に立った外交、交渉に日本政府は踏み出すべきだろう。それが大人というものではないのか。

   蛇足ながら、右翼の論客?西尾幹二が週刊誌や月刊誌で「私は単純に安倍首相の人間性に呆れ、失望しただけです」と、首相を右側から痛烈に批判している。 
 「拉致のこの悲劇を徹底的に繰り返し利用してきた政治家は安倍晋三氏だった。(中略)主役がいい格好したいばかりに舞台にあがり、巧言令色、美辞麗句を並べ、俺がやってみせると言い、いいとこ取りをして自己宣伝し、拉致に政権維持の役割の一端を担わせ、しかし実際にはやらないし、やる気もない。政治家の虚言不実行がそれまで燃え上がっていた国民感情に水をかけ、やる気をなくさせ、運動をつぶしてしまった一例である」と。

 このように、安倍晋三が国民の利益など関係なく私利私欲で政権を利用しているのは、政治的立場を超えて常識になっている。
 北のミサイルを心の底から喜んで大笑いしているに違いない。
 なんとなれば、北が日本列島を目標にしたミサイルを配備したのはズーッと以前のことである。Jアラートを使って今大騒ぎしているのは米国を対象にしたミサイルである。
 また、ほんとうに日本にミサイルの危機が生じているなら、イの一番に原発を止めるべきである。
 結論は、北の危機を宣伝すれば政権支持率にプラスになるという政局判断だけだろう。
 9月28日国会冒頭解散、10月22日投開票との記事が報じられている。
 厳しい批判が必要だと思う。

    にょっきりと年年歳歳曼殊沙華

2017年9月17日日曜日

埴輪は踊る

   百舌鳥古市古墳群というのは前方後円墳のピーク(つまり古墳時代のピーク)のものであり、倭の五王の時代前後のものである。
 そして、実は人物埴輪の誕生した時期でありその地でもある。

 人物埴輪というと東京国立博物館にハニワ課長で有名になった「踊る埴輪」があり、埼玉県熊谷市出土とされているが、戦前のことなので出土地も含めてよく解っていない。

 塚田良道氏の指摘では「その内のひとつの背中の腰帯に鎌を挿しているから、他の埴輪と比較検討するとこれは「踊り子」ではなく「馬飼」であるという有力な説がある。

 それにしても始皇帝の兵馬俑と比べて人物埴輪のこの抽象性は何だろうと常々思っている。
 単純に倭の技術が稚拙であったという説もあるが、倭人は「省略の造形を好んだ」という説に贔屓したい気も多少ある。

 多くの巨大古墳の主要部分が宮内庁によって公開されていないなど問題点もあるが、世界遺産登録がされれば着実に整備も研究も深まるだろうと私は期待している。
 ただ「イルミネーションの維新」(4年前の松井発言)に市政を譲ると金儲けのためにしか対応しないだろうから、ここはどうしても竹山市長再選しかないと考えている。

 昨日、百舌鳥古市古墳群の国内選定を祝ってハニワ課長と写真を撮ったが、その写真を見て、己が年老いた姿に力をなくしている。
 妻からは「雨のせいでズボンの膝が抜けたからそう見えるだけや」と慰められたが、それは明らかに私への気遣いだった。

    秋深し古墳の本を読み直す

2017年9月16日土曜日

臨時財政対策債

 堺市長選挙で臨時財政対策債(臨財債)が話題になっていた。
 耳慣れない話題だったので少しばかり調べてみた。

 そもそも現在の地方財政制度のもとでは、毎年政府は「地方財政計画」を予算案とあわせて国会に提出し、地方自治体が財政運営に支障をきたさないように対策をとることが義務づけられている。政府の義務である。
 この法的義務をふまえて、かつては、法定率分の交付税では財源が不足するため、交付税特別会計として政府が借金をして、地方交付税の一部として自治体に交付してきた。

 ところが政府は、それによる交付税特別会計の借金が40兆円にものぼるとして、特別会計の借金というやり方をやめ、大枠の考え方として、財源不足額の半分は国の一般会計から補充して地方交付税に上乗せし、残りの半分を地方自治体の借金でまかなうことにした。これが臨時財政対策債だ。ただし、ここが大切なポイントだが、財源不足の補充は国の責任なので、臨時財政対策債は名目としては自治体の借金だがその返済は各年の地方交付税で措置され、自治体には負担が生じないようになっている。

 政府のこういう臨時財政対策債方式に批判はあるが、実態としては国の借金の看板だけを自治体の借金のように架け替えたもので、実質は自治体の借金とは言い難い。
 これは地方行政では常識に属する事実なので、大阪市長時代の橋下徹もそのように繰り返し発言していた。

 ところが今般の維新の堺市長候補は、この臨時財政対策債を含めて財政問題を論じ、大阪市よりも借金の多い堺市というデマを大声で拡散している。
 先日から「ヒトラーとナチ・ドイツ」の勉強をしているが、維新候補のそれはナチスばりのデマである。

 さて、私は老人ホームの家族会の役員をしているが、会計の問題では考えさせられることがある。
 例えば、少し大きな備品や行事のためには幾らかのお金を積み立てておく必要がある。しかし、老人ホームであるから一定の会員の移動は避けられない。となると、お金を負担した人と受益する人が異なってくる。なので、この程度の組織ではあまりお金は貯めない方がよい。
 いろんな組織でも共通する課題だろう。

 しかし、地方自治体や国土交通行政などではそうはいかない。桁違いに大きな(多額の)建設等が不可避である。
 これを無借金で対応するなら、建設時に負担した住民と、その後に受益する住民の不公平が生まれる。その額も桁が違う。
 こういう場合に、受益者が公平に負担する方式のひとつが公債であり借金である。だから、何もかも私生活の家計と比べて「自治体の借金は悪だ」と捉えるのは正しくない。ただし程度問題であり、後年度の住民が返済に走り回るようではいけない。

 と押さえたうえで、ほんとうの堺市の財政状況の実態はどうか。
 堺市と大阪市と大阪府のそれぞれのホームページの平成27年度決算で「財政健全化」部分を見ると(当然、%が低いほど財政は健全)・・、
 ■ 毎年の収入に占める借金返済額の割合【実質公債費比率】
   堺市    5.5%
   大阪市   9.2%
   大阪府  19.4%
 ■ 収入に対する純負債総額【将来負担比率】
   堺市   16.6%
   大阪市 117.1%
   大阪府 189.0%      ・・であった。

 調べてみて、私はあまりの落差に驚いた。堺市の健全財政に比べて維新の首長の大阪府市の危うさは明白だ。
 いわゆる都構想が政令指定都市・堺市を解体して、大阪府(大阪都ではない)に財源(主としては堺市民の税金)を吸い上げようという魂胆は明らかだろう。
 夏井いつき先生流にいえば、この数字を見てそのことが想像できないのは「才能なし」と言われても仕方がない。
 そして吸い上げられた税金のその使い道はカジノだというのだから言語道断だと思う。

    秋祭り故郷の友からメールあり
    

2017年9月15日金曜日

堺という街

 春に退職者会の遠足で堺の街を散策したとき、堺市役所21階展望ロビーで「この道から北が摂津の国、南が和泉の国、その神社の東が河内の国。なのでこの丘が三国ヶ丘で、だからこの街が堺(※くにざかいの意)」と説明すると意外に皆に感心していただいた。
 ということは、世間ではそれほど知られていなかったということになる。

 私の好きな中世史家・網野善彦氏の著作に『無縁・公界・楽』という有名な本があるが、そこでは国境(くにざかい)にそういう無縁、公界、楽が生まれ、アジール(平和領域)となり自治都市に発展したものが少なくないとあって、私は堺の街を思い浮かべて妙に感心したことがある。

 国境線には多々変遷があるが、近現代の和泉(泉州)も概ね泉北丘陵~和泉山脈の西側、海寄りがそれで、東側の南河内とは割合はっきり分かれていた。
 ところで、先日来度々高速道路の堺ICを降りて大阪狭山市に向かったが、妻や子どもたちに「ここまでが泉州堺、この先は南河内」と言ってもキョトンとするばかりに地形は変わっていた。
 きっと都市化によって気候も変化しているものと想像するが、若い頃、堺の市街にあった高校に「岩室」の同級生が「雪のため登校できなかった」ことに驚いたことを思い出す。街も変わるものである。

   変わるといえば海側のそれはもっと顕著で、白砂青松の海は今は一大コンビナートになっている。
 「お祖父ちゃんはここで泳いで貝を採って食べてたんやで」と言っても子や孫には想像もできないだろう。
 そのように、まるで生き物のように街は歴史を積み上げ成長する。

 平成の大合併とやらで新しい名前の都市が増えたが、耳で聞いても地図上の位置が出てこない。これはよくない。失政の見本である。
 「学芸員はガンだ」といった大臣同様、街の歴史を顧みることのできない政治家は金儲けの数字だけで組織をいじり、それで市民が幸せになるようなことをいう。その多くの数字も嘘である。

 維新の堺市長選挙の候補者は、堺を分割して大阪府(決して大阪都にはならない)に吸収する構想を持っているが言語道断である。選挙期間中だけそれを言わないのはカモフラージュである。
 大阪市長がカモフラージュだと述べている。

 先日堺市と同程度の人口規模を持つ東京都世田谷区長のことを書いたが、世田谷区長は住民自治の充実のためには都の中の特別区でなく政令指定都市にしたいと主張されている。真っ当な意見だろう。
 少しでも街の歴史や文化を大切に思うなら、堺市長選挙の選択は竹山市長の再選しか考えられないがどうだろう。
 
    がら入れと土鍋出したる白露かな

2017年9月13日水曜日

日日是好日

   「日日是好日」は唐時代の禅僧雲門文偃(うんもんぶんえん)和尚の言葉らしいが、私などは、どうしても武者小路実篤の色紙のイメージが頭の中で先行する。

 そして、その(色紙の)「供給」の多さを市場の価値観で見てしまい、言葉そのものの有難味を軽く感じてきた。情けない。

 ひろさちや氏の本には、「毎日毎日がすばらしい日であり、われわれはそれをしっかりと生きねばならない。きょうをほうっておいて、明日のことを考えてはいけない。そういう意味なのである」とある。

 だが、スーダラ節ではないが、「わかっちゃいるけどやめられない」訳で、要らぬ将来を心配して思い悩んだりする。

 よく似た言葉は聖書のマタイ伝にもあることを知った。いわく、
 「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」。

 とはいえ、この国(主に政治経済)の未来には不安が尽きない。
 その不安を語ることはそれはそれで大切なことだろう。

    知らぬ間の二歳の夏や退院日

2017年9月12日火曜日

維新の非常識

 世間の常識は維新の非常識らしい。
 大阪市長が5日、大阪都構想そのものの「特別区」と、大阪市を残したままの「総合区」をごちゃ混ぜで議論することについて、「この任期、総合区とか作戦練って進めてますけど、山の頂上っていうのは特別区やって都構想やって、経済成長するような日本を引っ張るような街にしたい。そりゃカモフラージュすることありますけど、それは作戦ですから」と支持者を前に発言した。

 6日の議会では「僕は別にカモフラージュって言葉使ってませんから。そういった言葉使われるのはどうかなと。いささか心外ではあります」と居直ったが、7日には「確かに言った」と謝罪した。

 早い話が、「総合区」というのは公明党を引き込むためのカモフラージュで、上手く騙して「大阪都」=「特別区」に誘導するのが本心だと支持者たちに語っていた訳だ。

 そういえば、橋下徹は「これが最後の機会だ」と言って「都構想の住民投票」をしたが、その「最後の機会」というのも市民を煽るための嘘だった。
 そして今回、堺市長選挙に立候補した維新の候補者は「都構想は争点ではない」と言っている訳だが、ここまで来て、この言葉を信じるということになれば、それは学習能力がないということにならないか。

 大阪都構想について、堺市と同規模(さらに人口の多い)東京都世田谷区保坂典人区長は、要旨次のように述べている。
 『世田谷区は7つの県(佐賀・島根・鳥取・徳島・高知・福井・山梨)を上まわる人口規模を持っているが、首長の権限は一般の市町村長以下と聞くと、まさかと思う人も多いかもしれない。
 まず、税収が限られている。法人住民税、固定資産税(個人・法人)等は、都が徴収し、その55%が区に配分される「財政調整制度」で運営されている。
 財源を握っている都の立場は強くなり、配分を受ける区は「さじ加減」に財政上の大きな影響を受ける。 
 例えば、楽天本社が移転してきたが、都が法人住民税を受け、区には直接の税収はない。
 間接的には、住民増で税収があがる等のメリットがあっても、ただでさえ足りない保育需要が上昇する等の仕事を抱えることになる。 
 一方で地方分権の流れで、都市計画決定権限が市町村に移行したが、「特別区」だけはまちづくりに重要な「用途地域」等を決める権限が除外されている。
 例えば、文化・芸術のインフラとして、ライブハウスや小劇場がつらなるまちづくりを誘導しようとしても、「用途地域」の変更なしには進められないのが現状。ソウルでは、テハンノ(大学路)には小劇場が密集しているが、小劇場を持つビルオーナーに対して、固定資産税の減免を行なっている。世田谷区には、その権限はなく、固定資産税の減免という切り札を区の政策で使うことは出来ない。
 ・・だいたい、これまで、政令指定都市の住民自らが「市の解体」に賛同したことは聴いたことがない。神奈川県には、横浜市、川崎市、相模原市と3つの政令指定都市が存在するが、例えば横浜市を解体して、神奈川県の特別区にするという議論はあまり聞いたことがない。むしろ、横浜市は政令指定都市からさらに自治権を確立した特別自治市を提唱している』。(以上、発言要旨)

 如何だろう。私は世田谷区長の主張の方が世間の常識で、大阪維新の主張の方が非常識だと思う。

 結局のところは、堺市の財産を府に巻き上げたいだけだろう。
 堺市の市民一人当たりの市債(借金)残高は大阪市の半分で、20政令指定都市中第5位というトップクラスの健全財政。
 大阪府が財政悪化で維新府政後5年連続イエローカード(起債許可団体)になっていることと対照的だ。
 大阪市でバクチ(カジノ)による町おこしをしたいから堺は金を出せ!というのが許されるのかどうかが堺市長選挙の争点だろう。
 そう考えると、竹山市長を再選させることが堺市民にとってどれだけ大切かが解ると思う。

    鈴虫や白昼の駅の草叢

2017年9月11日月曜日

三角縁神獣鏡

   239年魏帝は卑弥呼を親魏倭王に封じ、返礼の下賜品に加え銅鏡百枚を賜与したが、列島各地から出土した三角縁神獣鏡(さんかくぶち(えん)しんじゅうきょう)はその銅鏡ではないか、いや三角縁神獣鏡は日本国内製であるなどと、邪馬台国所在地論争と絡んで大いに議論されている。

 その「景初三年、陳是作」という三角縁神獣鏡が大阪府和泉黄金塚古墳から出土したのは戦後のことで、母校の高校の「リキさん」という渾名の先生や学生(つまり先輩)らも幾らか関わっていた。
 なので、リキさんの「政治・社会」の授業では発見当時の感動を何遍授業で聴かされたことか知れないが、日本史を専攻していなかった私などは聞き流していたのが今にして思えば残念だ。人生はとかくそんなものである。

 それから50年以上たったのだが、学問というか勉強などというほどのことでなくとも、卑弥呼の鏡のいろんな推理は楽しい。
 そんなもので、以前から購入したいと思いながら本体2,400円という値段に些かビビッて専門書店の書架を眺めていただけの本があったが、今般、出版社である学生社が倒産して今後は手にすることが困難になりそうというので思い切って購入した。池上曽根史跡公園協会編『古代の鏡と東アジア―卑弥呼の鏡は海を越えたか―』執筆陣は、金関恕、新井宏、菅谷文則、福永伸哉、森下章司とシンポジウムである。
 
 濃密な論争も魅力的だったが、この本で特に新鮮だったのは新井宏の「鉛同位体比から見た三角縁神獣鏡」で、その精密な自然科学的な分析から、出土鉱山、生産時期、生産場所が特定できるというものだった。
 ただ、同じ紋様でも中国製の原鏡と倭製の複製鏡の問題や、何よりも金属には鋳潰して再利用する問題があるので、単純に卑弥呼が魏からもらったものかどうかの特定までは進んでいない。
 この本の話はそこまで。

 この本の購入直後、普通の書店の書棚で岡村秀典著『鏡が語る古代史』岩波新書というのを見つけたので、この本の続きで読んでみようと思ってとりあえず購入しておいた。
 新書は、鉛同位体比とは対極かも知れないが、徹底して中国における銅鏡の文字を一字一句読み解き、絵を比較して、年代と製作地域と担当した工人を特定するものだった。
 鉛同位体比以上とも思える緻密さを読むのにはくたびれたが、一つひとつ納得させられて読み進むのが楽しかった。

 以下に一部(要旨)を抜粋するが、興味のない方は読み飛ばしてほしい。

 三角縁神獣鏡の製作地をめぐる議論の中で、一連の「陳是作」鏡の銘文についていくつかの解釈が提出されているのでそれを検討する。(原文省略)
  景初三年に
  陳氏 鏡を作るに、自(おのず)から経術(けいじゅつ)有り。
  本(もと)より是(こ)れ京師(けいし)より、他地(たち)に出(いだ)す所なればなり。
  吏人(りじん)之(こ)れに照らせば、位は三公(さんこう)に至らん。
  母人(ぼじん)之(こ)れに照らせば、子を保ち、孫に宜(よろ)し。
  寿(いのち)は金石の如くあらん。

 四言の銘文は、第二行・第三行の「術」と「出(しゅつ)」が押韻し、第四・第五行は対句である。作鏡者の「陳是」は「陳氏」、「述」は「術」の仮借である。第二行は淮派の画像鏡にみられた「尚方作竟自有術」などをもとに「ただしい」という意味の「経」を加え、四言句に改変したものである。つまり、これは「陳氏がつくった鏡は正しい規範を内包している」という通有の銘文であり、「自(おのず)から鏡をつくる経歴を述べる」という(倭製論者である)王仲殊の解釈には無理がある。
 第三行の上句「本是京師」は字釈に異論がなく、「正始元年」鏡との対照によって「是(し)」は「自(じ)」と、「京(けい)」は「荊(けい)」とそれぞれ通じている。「京師」は首都を意味し、魏の都洛陽にほかならない。
 問題は下句で、字形が鮮明でないため字釈が分かれているが、光武英樹説が穏当で、「もとより都の洛陽から他の地に輸出するところのものである」という意味であり、はるばる大海を渡って朝貢してきた倭王卑弥呼に贈るものとして制作されたと解釈できる。

 引用したい説は多岐にわたるが、興味あるお方は「新書」を購入してゆっくりと読んでいただきたい。

 私の銅鏡の旅は緒についたばかりである。
 昔、33面の三角縁神獣鏡が出土した天理市の黒塚古墳をみて、その鏡が被葬者の方に鏡面を向けていたことから、これは「被葬者が蘇って害を及ぼさないように」封じ込めるために祈ったものとの説を信じていたが、中国での発掘でも鏡面を被災者の方に向けているものが幾つも出ているので、やはりごく普通に「邪魔をされずに黄泉の国に行けるように」という僻邪の信仰ではないかと考えなおしているところである。

 「服(ふく)する者は・・不祥(ふしょう)を辟除(へきじょ)せん」というような鏡の文言も、さらに西王母などの神や、四神などの獣の絵も道教の信仰である。
 「日本には道教は入ってこなかった」と大先生があちこちの書物に書いておられるが、偏見を捨てて素直に直視すれば、ほとんどの神社で銅鏡を御神体としている日本の神道が大いに道教の上に成り立っていることは明白だ。
 サッカー、ナショナルチームが三本足のカラスを胸につけているのは、当事者の皆さんが知っているのか知らないのか知らないが実に微笑ましい。

    どぶろくや夫婦揃ってぷはといふ

2017年9月9日土曜日

ヒトラーとナチ・ドイツ

   「風が吹けば・・・」的にいえば麻生太郎副総理のおかげで私は少し賢くなった(ような気がする)。
 9月2日に書いたとおり、麻生副総理は2013年に憲法改正をめぐって「ナチス政権に手口を学んだらどうか」と発言し、この829日には「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と、つまりはホンネを訳すると「ヒトラーの政治の結果は駄目だが動機は正しかったと思っている」と発言した。

 念のために指摘するが、麻生太郎は国の副総理であり、安倍総理は彼の責任を全く問わなかった。
 それが現代日本の現実の姿だった。
 なので、この問題は簡単に批判するだけでは終われない。私はそう思った。思慮の浅い老人が口を滑らせたと信じるのは同程度に思慮が浅くはないだろうか。

 だとすると、ヒトラーの政治は、麻生太郎が「撤回した」とはいうものの、そんな例え話に使えるような軽い「ミス」だったのだろうか。そして、近代日本がお手本にした当時の最文明国ドイツにどうしてヒトラーが誕生したのか。過酷なヴェルサイユ条約だけが遠因だったのか。
 もう一度じっくりと復習する必要性を私は強く感じた。
 ということで、石田勇治著『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)を購入した。

 よく同輩から「目も悪くなったし新聞だけはしっかり読んでいるから単行本を読むのはどうも・・」という声を聞いたりするが、やっぱりものごとをしっかり理解するには本を読まなければ・・と痛感したというのが私の感想。
 本書の章立ては・・、
 第一章 ヒトラーの登場
 第二章 ナチ党の台頭
 第三章 ヒトラー政権の成立
 第四章 ナチ体制の確立
 第五章 ナチ体制下の内政と外交
 第六章 レイシズムとユダヤ人迫害
 第七章 ホロコーストと絶滅戦争  ・・となっている。

 また、帯のコピーには・・、
〇 ヒトラーは、いかにして国民を惹きつけ、独裁者に上りつめたか?
〇 なぜ、ドイツで、いつのまにか憲法は効力をなくし、議会制民主主義は葬り去られ、基本的人権も失われたのか?
〇 ドイツ社会の「ナチ化」とは何だったのか?
〇 当時の普通の人びとはどう思っていたのか?
〇 なぜ、国家による安楽死殺害やユダヤ人大虐殺「ホロコースト」は起きたのか? ・・と書かれている。

 363ページに及ぶ内容をここに記すのは無理なので、興味を抱かれたなら購読されて損はない。

 この本のどこにも現代日本社会のことは触れられていないが、私は読みながらあちこちで日本維新(大阪維新)を思い浮かべた。そしてアベ政治を。日本会議を。この自然と湧き出てきた連想は自分でも予想外のことだった。あまりに似すぎている。あまりに麻生副総理の指摘は当たっている。
 はっきり言えば「手口を学んでいる」。
 麻生太郎は馬鹿ではない。この国は高度なオブラート(手口)に包まれながら、着実に昭和前史に回帰している。本を読みながら心拍の高鳴りを抑えることができなかった。

 最後にカバーの文章を転載する。
 ナチ時代のドイツを考えるうえで見落としてはならないもうひとつの論点は、ヒトラーとナチ体制が人びとを惹きつけた「魅力」についてである。ヒトラーのカリスマ的支配の拠り所がその国民的な高い人気にあったことは、よく知られている。だがそれは、どのように生み出されたのだろうか。
 ナチ体制は「民族共同体」という情緒的な概念を用いて「絆」を創り出そうとしただけでなく、国民の歓心を買うべく経済的・社会的な実利を提供した。その意味で、ナチ体制は単なる暴力的な専制統治ではなく、多くの人びとを体制の受益者、積極的な担い手とする一種の「合意独裁」をめざした。このもとで大規模な人権侵害が惹起され、戦争とホロコーストへ向かう条件がつくられていったのである。

 この指摘している諸事実は重い。
 ナチズムを反省するということは、人間とは、人生とは如何にあるべきかという問でもある。
 殺されるのも嫌だが、殺す側も嫌だ。そういう二者択一を迫られる前に行動することの重要さをしみじみと感じさせる本だった。

 少し前の段落で「興味を抱かれたなら購読されて損はない」と書いたが、それは麻生太郎副総理に倣って撤回する。
 私の感覚では、現代はナチズムの台頭した時代とあまりに似すぎている。
 無能な保守派が自分たちの利益のためにナチを「利用しよう」として母屋を取られること。マルティン・ニーメラー牧師の反省のとおりに良識が分断されることの負の効果。ヘイトスピーチやその行動を権力者が事実上擁護することの先にある怖さ等等等・・
 なので、世の中や人生というものを誠実に考えてみたいと思われるなら、コーヒー2杯分ぐらいでこの本を購入されることを心から是非ともお勧めする。

 ユダヤ人が虐殺されていく中で「元ユダヤ人の家屋に入れた」「会社内でユダヤ人がいなくなってそれらのポストに出世が出来た」と喜ぶ声が生まれ、”あの”ドイツ人たちが90何%ナチを支持したのだ。これらの機微を理解できないと次なるナチズムは簡単には止められない気がした。
 熱狂する社会の恐ろしさを分析する旅に終わりはない。
 そして、当面する堺市長選挙で維新候補を破り、竹山市長再選を目指す意義は大きい。

    眠られぬナチの本読む夜長かな

2017年9月8日金曜日

奈良公園ゴルフコース

   奈良公園、春日大社の一之鳥居から東の本殿に向かう参道を行き循環道路(自動車道路)を越えると右手(南側)に広がるのが『飛火野』で、春や秋のピクニックの適地である。

 こんな「春日さんの前庭」のような場所に、実はゴルフ場建設計画があったということは全く知らなかった。

 奈良県近代史研究会の竹末勤氏の講義で初めて知った。
 明治43年、香港総領事・船津辰一郎から外務大臣小村寿太郎あて『奈良公園ニゴルフ運動場設置方ニ関スル件』が申達された。
 イギリス人建築家W・ウェルトンの提言には、
 ① 奈良公園ニハゴルフ運動場トシテ最適当ナル地域アリ、右地域ニ相当ノ設備ヲ施セハ東洋ニ於ケル第一ノゴルフ運動場トナル
 ② 本邦ヲ漫遊スルモノハ必ス奈良ニ立寄ル様可相成、従テ同地ノ繁栄策トモナル可
・・とあった。
 奈良県は、参考のため神戸ゴルフ倶楽部を調査したりしたが、政府の富国強兵策とマッチしなかったのか、この構想はその後消滅した。

 奈良の歴史というと古代史や中世史ばかりの観があるが、近代史も捨てたものではなさそうだ。
 2013年7月13日に『維新と大砲』というタイトルで吉村長慶のことを書いたが、廃仏毀釈時の奈良は動乱の時代であった。
 いつの世も、権力にヨイショをして金儲けを企んだ奴らがいた。

 現代も、国立公園・世界文化遺産の地に「特区」的に高級ホテルを造ろうと策動している面々は多い。
 奈良のおもしろいところは、自民や公明がそういう文化破壊の先頭に立ち、共産が「寺社やその文化を守れ」と運動しているところが世間の常識?とひっくり返っていて可笑しい。
 なんとなく作られた印象(保守や革新という言葉)で物事を計ってはいけない。
 歴史や伝統を一番大事にしているのが共産党だと言ったら世間は驚くだろうか。

    昔からアオマツムシはグローバル

2017年9月7日木曜日

加藤義明さんのこと

   
   9月5日付け朝日新聞(大阪本社)夕刊社会面に、きり絵作家加藤義明さん(1931~2010)の記事が大きく載っていた。
 加藤義明さんは美術史上欠かせない人物で、作品を後世に伝えたいと、作品群の寄贈先美術館を探しているということだった。

 加藤義明さんの名前は知らなくても、一定年齢以上の大阪の人なら、1973年にヒットしたNHKドラマ、茂木草介作「けったいな人々」のタイトル画の美しさは覚えておられるかもしれないし、1983年から地下鉄淀屋橋駅の天井にまでかかって壁一面の「大阪のまつり」幅12m×高さ4m×4枚のきり絵は何年間も大阪のシンボルのようなものだった。
 
 きり絵の最大の特徴は「吊り」とか「つなぎ」で絵をバラバラにしないことで、あくまでも「1枚の紙であること」だが、それが素人が作るとその「つなぎの線」がいやに鼻につくものだが、それを美術の域に高めた一人が加藤義明さんだと私は思っている。
 ほんとうに適切な美術館が手をあげてほしいものだ。

 さて、8月26日の「折口信夫と盆踊り」の記事で少しだけ触れたが、生駒谷・平群(へぐり)の村の古い盆踊りの中心には行燈付きの竹が立てられ、その行燈は「切紙」(きり絵)で飾られていた。
 その詳細を復元するには義母の記憶は遠すぎた。

 平群の古い盆踊りはほんの一例で、各地の祭り、神事、仏事に伝承されてきた「きり絵」は数多く、多くはただの装飾ではなく、重要な結界であったり依代(よりしろ)だろう。
 26日の記事のメーンテーマの「音頭取りがさす番傘」のように、今のうちに誰かが蒐集整理しておかないと、雲散霧消してしまわないかと心配だ。
 正倉院御物の「人勝残欠(じんしょうざんけつ)」のように残欠になってからでは遅い。

 私の嗜好から伝統的な「きり絵」に話が跳んだが、加藤義明さんのそれは現代美術の作品である。
 8月に、氏が長く居住されていた堺の地で「平和のための戦争展」があり、その一角にいくつかの作品が展示されていた。
 そういう展示の機会が何処かであればどうか鑑賞していただきたい。
 氏の夫人は私たちの労働組合の近畿地協の書記さんでもあった。

    ふるさとのきり絵が揺れる秋祭り

2017年9月5日火曜日

実証主義

 昨日の記事で「鹿だまり」のニュースがフェイク(ニセ)とまでは言わないが、私の知る限り「奈良国立博物館前が涼しい」ということは事実としては認めがたいという感想を書いた。
 近頃はこの種の実証のない「情報」が大手を振って独り歩きすることが多いから、私は、少なくともSNSで何かを書くにあたっては、出来るだけ歴史的に検証された書物に当たってみたり、実測等が可能なものは実地検証してみようと心がけている。

   そうすると・・・反省すべき微妙に気になることを思い出した。
 7月29日の『解除会(げじょえ)』の記事のコメントで、大仏殿の北東(鬼門?)の柱の穴は30㎝×37㎝だと書いたが、これはネットで得た数字であった。
 記事に書いた私の体験上ほゞ了解できる数字だと思って書いたのだが、精確には自身で実証はしていなかったし、私の持っている書籍等にもその種の数字はなかった。

 そこで、先日、・・・反省を込めて、メジャー(巻尺)を持って廬舎那仏(大仏殿)にお参りに行った。そして実際に測ってみた。
 答は、底辺30㎝×高さ37㎝の長方形で間違いなかった。
 四隅の丸みもそれを問題にするほど大きくはなかった。
 もちろん、先のコメントで「対角線(斜辺)の長さはピタゴラスの定理で47.637㎝」と書いたことも当然ほゞ合っていた。
 で、忘れ物が見つかったような何かすっきりした気分になった。ああよかった。

 さて、その日その時間は遠足や修学旅行生がいなかったので、大仏殿は比較的空いていた。
 なので私は、国内外の観光客(圧倒的には外国人)に、これはせっかくの機会だからと呼び止めて「柱くぐり(鼻の穴くぐり)」を思いっきりお薦めした。
 順番に呼び止めて、グレートブッダのノーズのホールとイコールでダイブするとラッキーだからチャレンジするよう訴えた。
 そのとき、躊躇する大人たちには私のメジャー(巻尺)が威力を発揮した。
 メジャーで穴の対角線(45㎝強)を確認させたうえで、バンザイをさせて順に肩幅を測ってあげた。
 そして、オーライ オーライ又はソーバッドと宣告し、オーライ組はダイブでラッキーだとチャレンジさせた。
 実際、肩幅40㎝強の大人でも潜ることに成功した。
 数えきれないほど多くの観光客を測り体験させた。
 彼ら彼女らには、きっと、日本旅行の楽しい思い出のひとつになったに違いない。
 潜り終えてから、何回も何回も親指を立ててグッド グッドと私にお礼を言った人もいた。

 仏堂でこんなに面白がってよいものだろうかとの躊躇も過ったが、彼ら彼女らが、日本、大仏、そこで勧めてくれた日本人を楽しく思い出にしてくれたなら、廬舎那仏の意にも沿うのではないかと勝手に理解した。

 ヘイトスピーチなどという嫌な言葉も聞く昨今だが、韓国語、中国語、英語、スペイン語等関係なく笑い声とお礼の言葉は通じ合う。 
 この記事の読者の皆さんには、奈良(東大寺)観光の際はメジャーの持参をお勧めする。「鼻の穴くぐり」で国際親善は大いに深まる。間違いなし。

 ニッポン旅行の土産話で、「おかしなニッポン人にそそのかされて、ニッポンの奇習を体験したよ」と自慢している顔を想像して含み笑いをしている。

    鼻潜る善男善女の声清し