2016年9月24日土曜日

もんじゅとISDSを考える

   21日、原子力関係閣僚会議は高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)について「廃炉を含め抜本的な見直し」を表明した。
 高速増殖炉とは、マスコミは「夢のエネルギー」とか何とか言っているが、早い話が軍事用プルトニウムを生産する軍事目的の原子炉である。
 しかも「もんじゅ」は重大欠陥商品で、1983年に工事着手し、1兆2千億円をかけて20数年間で250日しか稼働しなかった。
 「廃炉を含め」ではなくきっぱり廃炉すべきである。

 テレビのニュースでは、その会議を受けて敦賀市長が、「騙されたようだ」と憤慨していた。
 市長の親族が原発の下請け業者であるとのうわさは置いておいても、彼はいったい何を騙されたのか。
 公人であれ私人であれ、自分の頭で検討・判断する能力を欠いていたことを白日の下に暴露したようなものだ。
 否、「騙された」というのは嘘である。2兆4千億円の広告費で黙らされたマスコミもマスコミだが、税金や電力料金で全国民から吸い上げられた札束に群がって、次世代の幸福も全国的な危険も顧みず悪魔に魂を売ってきたのである。

 よくテレビの「街の声」で、「廃炉されたら自治体の予算や雇用が大変だ」という声が流されるが、それなら、自分の自治体の予算のためなら他人が不幸になっても子々孫々が不幸になっても良いのか。
 今まで受領した金品をフクシマに全額お返ししてからモノを言え。
 「文殊」という名をつけられたことに鑑みれば、全国の仏教徒も怒るべきだろう。
 「文殊」という名の下に住民によこしま(邪)な心を植え付けた政府・原発ムラの道義的責任は非常に重い。


 さて、世の中ではTPPというのは農家の問題であるかのような誤解がある。
 ISDS条項の恐ろしさが広がっていない。
 投資家や企業が、投資先の国内法によって損害を被るか、将来得られるはずの利益が得られなかった場合に国家を訴える権利条項である。
 世界銀行の下にある企業家による一審制の密室の「法廷」でそれは裁かれる。

 だから、TPPが成立したのち日本が脱原発を決めた場合、アメリカの原発メーカーは日本政府をISDS裁判に訴えるだろう。
 事実、ドイツ政府の脱原発政策に対して、スウェーデンのバッテンフォール社が約6000億円の賠償を求めて提訴していて、ドイツは敗訴するだろうと言われている。
 小さな国では、国そのものが国際金融資本等に食いつぶされることになる。

 事実そのような事案は世界中で起っている。
 先行する同種の事案ではアメリカが全勝している。
 話を広げすぎるといけないが、農協(米価等)も皆保険(薬価等)も環境、健康、公衆衛生、消費者保護、労働者保護行政等々も、主権(国家)以上の国際企業に蹂躙される。「それは不当な障壁だ!」と。
 公共性のある医療、介護、教育も人権も、非営利原則や共同体の理念も「不当な保護主義だ」と。

 繰り返すが、「TPPを農家の問題だろう」というように軽視すれば、脱原発は不可能、あるいは大きな損害と引き換えになる。
 脱原発の方がよいとお考えの良識ある国民は、そのためにも決してTPPを許してはならないと思う。

 蛇足ながら、敦賀といえば福井、福井といえば北陸というイメージがあるが、地政学的には敦賀は近畿と言っても良いと思う。
 私の誤解であればよいのだが、「北陸福井」ということで、大阪や(瀬戸内側の)兵庫の人々の原発に対する反応が今一つという気がする。勘違いであればよいのだが。
 滋賀県の笑い話に「そんなことなら琵琶湖の水を止めたろか」というのがあるが、敦賀の原発事故では琵琶湖の水が止まってしまう
 と、・・・私は木津川取水の水道水を飲みながら心配している。 

2016年9月23日金曜日

山法師とツクツク法師

   写真はわが家の玄関の山法師の実。
 「ジューシーではないがほんわかと甘い」と20日の記事に書いた。
 台風でものすごい量の実が落ちたが、そうそう全部落ちてしまわないうちに撮影しておこうと思ってシャッターを押した。
 食べなくても風情がある。
 またぶり返すそうだが、台風後しばらくは涼しい空気で一挙に秋?という雰囲気。
 赤い実も文字どおり「秋ですなあ」といったところ。

 18日の記事のミニコミ紙をお贈りした先輩からハガキが届いた。
 私が送付状で「ツヅレサセコオロギの聴きなし」のことを書いたものだから、次のようにあった。
 『当地では、まだツクツクボウシが鳴いています。「ツクツクボウシ、ツクツクボウシ・・・・・イイヨ、イイヨ、モウイイヨ」と私には聴こえます』
 『何がいいのかな?と腹一杯の鳴き声にいつも足を止めて想像しています』と。

 ほんとうにツクツクボウシは、鳴き声の最終コースで、フィヨースというかウィヨースというかウイギョーというか、少し調子っぱずれに転調して終わる。
 イイヨ、イイヨ、モウイイヨもなるほどと納得。
 何年も地中で暮らし、やっと地上で恋を語ろうかというのに、「少し待て」とか言ってきた法師の的外れなお説教に、「もういいよ」、「急がないと秋が来るから」とコールしているのだろうか。
 だとすると、「人を見て法を説け」というありがたい聴きなしと言えなくもない。

2016年9月22日木曜日

たぬきの話

   テレビのケンミンショーで、『天かすと麺汁に中華麺』という蕎麦を紹介していて、台本どおりみんなが「ええ!」「不思議だ」「初めてだ」「わあ美味しい」と盛り上がっていた。

 それはさておき、大阪で「たぬき」といえば「きつねうどん」の蕎麦バージョンであるが、東京に行くと揚げ玉(天かす)の蕎麦のことで、大阪の「たぬき」は「きつね蕎麦」となる。
 以下、私の書く「たぬき」は大阪の「たぬき」のことである。

 さて、私が50年以上前に卒業した高校は伝統ある旧制高女を引き継いだものだからか、校内に食堂があった。
 ホットペッパーにも出てくるから今も健在らしい。
 で、その頃私が毎日のように食べていたのが「大(だい)たぬ*」で、麺の玉が二つ入った「たぬき」だった。(*たぬきの大だから)
 要するに味の基本は「きつね」である。が・・・その麺は「中華麺」だった

 だから、ケンミンショーの騒ぎようが馬鹿みたいで、それは美味しいに違いないと私は想像するまでもなかった。
 これまでも妻に、「高校の食堂のたぬきが美味しかった」という話はしていたが、結局50数年間食べては来なかった。
 その重い蓋をしていた郷愁にケンミンショーが火をつけた。

 なので、近くのスーパーで、一番安物の中華麺ときつね用の甘い味付きの揚げを買ってきた。うどん出汁は家にある。この場合、中華麺は一番安物でなければならない。
 あとは薬味葱だけで、私は瞬く間に50数年前にタイムスリップした。
 妻も「美味しいやん」と評価した。

 なんということのない「たぬき」だが、郷愁に味付けされた「中華麺のたぬき」に私は大満足した。
 ただ、私のような郷愁(思い出)のない方が食べれば、ただの安物の田舎料理だろう。
 それでいい。重ねていうが、この場合、麺は一番安物でなければならない。
 母校の学校食堂にその「大たぬ」が今もメニューにあるかどうかは知らない。

2016年9月21日水曜日

抑止力を考える

   先日、京大人文科学研究所山室信一教授の講演を拝聴した。
 メーンテーマは「憲法でつくる私たちの明日」で、【構造的暴力の廃絶としての憲法前文2項、憲法25条】【国家的暴力(直接的武力)の廃絶としての憲法9条】【個人の幸福追求権としての憲法13条】を、一体として捉えることの重要性を緻密な論理と各種データで教えていただいた。

 そして、【格差・貧困・将来不安の「三本の失(矢ではない)」】【アベノリ(ミではない)スク】の実態の分析のうえに、【憲法改正―緊急事態条項と国防軍の一体性】【監視社会化と「テロ等準備組織犯罪準備罪(共謀罪)」の法制化】【集団的自衛権の施行―「抑止力」と防衛予算】の危険性について説明を受け、

 さらに、改憲を許さないためにも、改憲の具体的手続きはどうなるかということを知っておくようにと教えていただいた。

 さて、私の感覚をいうと、トンデモ安倍内閣がそれでも相当な支持率を得ている理由は、経済政策ではやはりトリクルダウンへの期待感があり、北朝鮮の核開発や中国の尖閣諸島周辺の動きがニュースで大きく報じられる中で、やはり軍事力増強による「抑止力」論が支持されているように思う。
 なので私は、その後者の「抑止力」の問題について先生に文書質問を提出した。

 そこで、ここに絞って山室教授の講演内容や回答内容を私見を交えて要約すると、
 一つは、マスメディアの歪んだ報道に惑わされずに真実を知ることの大切さを先生は説かれた。
 事実、集団的自衛権施行後「抑止力」は働いておらず、反って東アジアの緊張は高まっている。
 北朝鮮の潜水艦からのミサイル発射も軍事専門家から完全な技術水準とはいえないとの指摘がなされている。
 核実験も、地震波だけで所期の目的を達したというのは早計。
 中国の艦船も基本的には太平洋に向けて通過している部分が大きい。
 つまり、「北」等が誇張して成果を誇示していることと、それを逆手にとって政府が「大変だ」と誇張しているという事実がある。

 二つは、実際に「抑止力」を信奉する国と国が対峙した場合、エンドレスの軍拡以外の道がなくなる。これは、冷静に議論すれば誰でもわかる。
 軍拡で迎撃ミサイルを完備したとして、核搭載ミサイルを迎撃(できたとしても)した場合、核爆弾は日本海~列島上空で爆発する。それを防ぐとすれば、結局は抑止力ではなく、先制攻撃しかない。究極の抑止力論はアメリカ型の先制攻撃論となる。
 詰まるところ、「自衛のための抑止力論」は成り立たず、軍事力で抑止力を働かせようとするならば、「危険を未然に防ぐ」という理屈の先制攻撃容認論でなければならない。理性的な日本国民はそれでいいのだろうか。
 
 なので、軍拡下で不測の事態が起らぬよう、あのアメリカだって中国とチャンネルを築いているのに、日本政府には全くと言ってよいほど対話の努力、外交努力がない。努力というよりも能力かも知れないが?

 冷静にそう考えれば、明日にでも「北」が攻めてきそうだと国内にアナウンスしながら、日本海側にずらりと原発を並べて再稼働するという政権の支離滅裂の素顔が見えてくる。ここがポイントだ。赤子でも解ること。
 戦前の日本には、「こう不景気が続くんじゃ、ここらでいっぺん戦争でも起こってもらわないといけませんな」という会話が普通に飛び交ったが、そんな露骨な言い回しではなくても現在財界の一部にはそういう主張が生まれている。
 安倍政権のホンネはここだろう。アベノミクスも、株の政治操作だけでなく、軍備輸出、原発輸出という死の商人として経済の再生を図ろうとしているという本質を見なければならない。

 そこで私は思うのだが、「抑止力」論を支持する人の多くは、そんな悪気はなく純粋に国や国民を心配しているのではないだろうか。
 だとすると、「その考えは浅い」と切って捨てるのでなく、「では、ほんとうにどの程度の軍事力を保持したならば抑止力が効くのか(そんな基準はあり得ない)」と冷静に討論することが大切なような気がする。

 山室教授は、「日本会議は草の根の運動を広げている」から、対抗しようとすれば、”上からの目線”で語るのを戒め、SNSに取り組み世論を底から形成していくことだろう」と話を結ばれた。
 さらに、先日亡くなったむのたけじ氏の言葉を引いて、現代社会にあっては、「沈黙していると滅亡する」「8月15日をただ黙祷するのでなく戦争絶滅の声を張り上げ続けるべきだ」「民主主義に観客席はない。あなたの立つそここそが民主主義の息づく場だ」と、高齢のむの氏が「今が人生のてっぺん」と訴え続けられた言葉を紹介し、SEALDsが提起した「誰かにやってもらうのではなく、自分がやるからしか何事も始まらない」の言葉で講演を終えられた。

2016年9月20日火曜日

祝ったり祝われたり

   昨日の昼食と午後は義母の敬老祭だった。
 そして夕方から夜は夏ちゃんファミリーがやってきて我々の敬老祭をしてくれた。
   またそれは、妻のバースデーパーティーを兼ねたものだった。
 夏ちゃんの誕生日は子どもの日に近く、娘のそれは雛祭りに近く、息子はクリスマスに近く、妻は敬老の日に近い。経済的な家系といえよう。

 妻は息子夫婦から畦地梅太郎のTシャツをプレゼントされた。
 私も欲しいほどのナイスプレゼントだ。
 若い頃、燕山荘でよく似たTシャツを買った覚えがある。
 そのほかには妻は夏ちゃんから暗号のお手紙をもらった。 

   さて、お寺詣りは先週に済ませておいた。
 22日は秋分の日、お彼岸の中日だ。
 写真は19日に撮影した咲はじめの彼岸花で、毎年驚くのだが、彼岸花はほんとうに彼岸にぴったり咲く。
 だから毎年感動する。


   道路には銀杏が落ちているが、わが家の玄関には山法師の実がこのように落ちている。
 ジューシーではないが、ほんわかと甘い果実である。
 紫式部の周りは落花した実のために薄紫に染まっている。
 もうすぐアサギマダラの報告をブログに書けることだろう。
 台風のせいかどうか知らないが、19日の夕方から涼しい風に替わってきた。

 孫の凜ちゃんはお父さんの実家の敬老祭に行っている。
 こんな穏やかな秋の日が続けばよいのだが。

2016年9月19日月曜日

段取り八分

 段取り八分(だんどりはちぶ)という言葉は、現役だったころ親切な上司に教えていただいた。
 建設業界ではよく使われているらしい。
 といっても、なにも建設業界に限らず汎用性の高い言葉で、何かものごとを成し遂げようとする場合、段取りがきちんとできたら8割方その仕事はできたも同然、反対にいえば8割方の努力を準備に傾注せよというあたりだろうか。

 先日のOB会の世話人会で一月後の「20周年事業」の打ち合わせをした。
 「記念写真を撮るときに横幕(看板)がある方がよい」「レセプションも〔ご歓談ください〕だけでは寂しい」「料理の打ち合わせは予算を睨んで適切に」等々議論が進んだが、どう具体化するかとなると事務局任せのような話が多い。
 超優秀な事務局に「おんぶに抱っこ」できた結果だろうが、段取り八分とは言い難い。

 ということもあり、なにか工夫ができないかとこの間から、無い頭を絞っている。
 頭の中にイメージを浮かべては、わが家の物置(妻に言わせるとゴミ屋敷)や百均やホームセンターを徘徊している。
 金を掛けずにみんなに喜んでもらえるアイデアでないと面白くない。(金を掛ければ何でもできる)

 そこで、恒例の薬玉に代わるアイデアがひとつ浮かんできた。
 キャッチコピーは「捲土重来(けんどちょうらい・けんどじゅうらい)」だ。
 年金、福祉をはじめ民主主義や平和の課題で政権による逆流が大いに進んだ。その状況に、土煙をあげて反撃しようという気持ちを形にしたい。
 その仕掛けをこの間から作っている。
 小学低学年の工作だ。
 だが、ああでもない、こうでもないと試行錯誤するのが楽しい。
 本番では往々にしてスベッたりするが、それもよし。

 そう! 行事の楽しみの八分は段取りを準備しているところにある。
 登山の準備をしているときのワクワク感のそれである。
 で、どういう仕掛けか?は内緒である。なので写真も載せない。

2016年9月18日日曜日

空を叩くや飛蚊症

 先日、仲間たちで作っているミニコミ紙秋号を発行した。
 記事が独りよがりになっていないかどうか、妻にモニター役をしてもらった。
 B4、6頁建ては全てに力の入っていることが伝わってるのではないかと、全体として及第点を貰った。
 なかでも一番印象に残ったのは何? と畳み掛けると、私の俳句?がよいとお世辞を貰った。
 俳句と川柳の違いも判らない者同士の会話である。念の為。

飛蚊症の味方・わが家の蚊遣りのひとつ
   それは、 土用凪(なぎ)空(くう)を叩くや飛蚊症 というもの。
 夏井先生に言わせれば、ただの散文だ!と言われるだろうが、夏の凪(な)いだ暑い夕暮れ、にっくき蚊にチクリと刺され、絶対に打ち殺してやらんと神経を集中すると、視界の隅にそれらしき影。・・で、パチンとやったが空振り、見えたのは蚊ではなく飛蚊症の故。
 「あほかいな」と、ほんのちょっと共感していただければ嬉しい。

 ミニコミ紙を送付した読者から、即メールが入った。
 ミニコミ紙よりも、私の送付状に感心をしていただいた。
 それでも、こういうキャッチボールはありがたい。
 今年の正月に中野晃一先生が、オールド革新の人たちは「正しいことを言えばみんな解ってくれるはず」という思い込みがないかと指摘されていたが、確かに思い当たる節があり、この種のキャッチボールを軽視していないかと思わないでもない。

 ミニコミ誌の記事は読者の顔を思い浮かべながら記事を書く。
 ミニコミ紙御礼のお便りには返事を出す。
 ブログのコメントにもコメント返しをする。
 OB会等で請われれば一指し舞う。
 そういう市民社会で当たり前のことを大切にしたいと反省ばかり繰り返している。
 「キャッチボールの要諦は相手が捕りやすいように投げ合うことです」と、いつも礼状を送ってくださる大先輩のお便りにあった。

2016年9月17日土曜日

私は誰

   私から私にメールが届く。
 有料のBS放送がタダで見られるカードだとか、インチキ商法のメールである。
 最初は驚いたが、メールアドレスを公開している以上こんな使われ方もしょうがないかと諦めている。
 ただ、私の知り合いが変なトラブルに巻き込まれると困るのでニセメールの見分け方を書いておく。

 普通、メールは、受信トレイに表示されるが、まず件名、その下に発信者の名前〈発信者のメールアドレス〉となっているが、その発信者の名前が私のメールアドレスになっていて〈 〉内の発信者のメールアドレス欄がそもそも無い。(隠している)
 あるいは、件名自体が私のメールアドレスになっている。
 なので、件名からして私のメールとしては何かおかしいと思われたら、件名の下の発信者の名前の後ろの〈アドレス欄〉を確認してほしい。
 こんな心配もあるので、メールの送信に当たっては件名を省略して直前のメールのRE・・・で済まさないように極力注意している。

 和道さんのブログに、登録した覚えのない「利用者登録完了」画面が出て、それがどうしても解除できず、料金を請求されそうになった経験が報告されていた。
 コメント欄には、よく似た体験もあった。
 弁護士先生のいう正解は、『「解除する」というメールや電話をしないこと』ということだ。
 メールや電話をしないとそもそも相手が請求できない。
 繰り返される嫌な画面は、それ以前に「復元」すれば消えるという知恵もコメントにあった。
 
 違法な詐欺ではないが、YAHOOオークションを利用したら、操作の途中で何かの「登録」がされて毎月498円の引き落としが始まったというコメントもあった。
 私も意に反してAMAZONプライム会員の年会費を引き落とされ、これは早く気がついたので返金させた経験がある。http://yamashirokihachi.blogspot.jp/2014/07/blog-post_27.html

 ネットの世界は生き馬の目を抜く人物も侵入している。
 だからといって尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。
 ネットで経験したヒヤリハットは大いに交流したいと思う。
 嫌なメールはどしどし「迷惑メール」に分類してしまうことである。

2016年9月16日金曜日

仲秋の名月

  昨夜は仲秋の名月だったが、「月に叢雲、花に嵐」の例えがある。
 こういう名言は歳をとってからよく判る。
 ということを実感させるような写真のとおりの名月だった。
 
   少し前から気圧配置が換わり、大陸から秋の空気が南下してきたり、また太平洋高気圧に戻ったりしながらも、確実に季節は秋の様子を見せている。
 熱帯夜の不眠から解放された喜びと同時に、寝冷えの心配が大きくなった。
 気が早いが、秋の向こうには冬が待っている。

 孫の凜ちゃんの病気の心配は不必要にしないように心掛けているが、医師からはRSウイルスに感染させないように厳重注意を受けている。
 風邪によく似た呼吸器感染症の一種で、乳児の半数以上が1歳までに、ほぼ100%が2歳までに感染するらしい。しかも、免疫は形成されず何回でも感染する。
 インフルエンザよりも死亡率が高く、孫のように重い基礎疾患のある乳児は気をつけろと医師に強く言われている。
 結局、人ごみに連れていかないこと、家族が風邪をもらってこないことと注意されているのだが、これが結構な難題である。

 私自身の経験を胸に手を当てて振り返ってみると、空気の悪い居酒屋で大議論をして飲み過ぎて、帰りの電車でうたた寝をしたようなときに風邪をひく。
 「このままでは風邪をひくな」とうすうす頭の奥で感じながらうたた寝をするときも多い。
 つまり、孫に風邪をうつす可能性の一番高いのは私である。
 なので、大議論と飲み過ぎは徹底して抑制しなければと肝に銘じている。
 付き合いが悪いという場面はそういうことだとご推察いただきたい。

 なので、OB会世話人会の二次会も早々に引き揚げてきた。

2016年9月15日木曜日

鮭の白子

   ひとつの妖怪が極東の列島を徘徊している。情報という妖怪が。

 朝にBSをつけていると、時々関口知宏のヨーロッパの列車の旅を映している。
 テレビの中の列車の中も、街の中にも圧倒的に広告が目立たず美しいことに、ある種のカルチャーショックを受ける。
 派手な看板や広告というのは中華文明なのかアメリカ文明なのか、ヨーロッパの石造りの街並みを見ながら、日本列島の品格に疑問が生じる。

 この国では、国民は情報に取り残されることに恐怖感を抱き、大勢に同調することで安心感を得ているように見える。
 操っているのは広告であり情報だ。
 テレビの中のヨーロッパに比べると狂気に似た広告の洪水だ。

 価額もそれによって決められる。
 例えば、鱈の白子がある。これは有名料理店でも「おしながき」に載るものだから、そこそこの値段がついている。
 しかし、鱧の真子や普通の魚の真子・白子・肝は二束三文で売られていることが多い。
 先日も近所のショッピングモールで鮭の白子が売られていた。
 結構な量があるのに140円ほどだった。もちろんわが家は2パック購入した。
 ボイルしてポン酢で美味しくいただいた。
 これから鍋の季節になると鍋に投入する。
 だいたい魚の真子や白子や肝で不味いものはほとんどない。
 ただ、テレビ等で「有名」でないだけだ。

 そのお陰でわが家では安くて美味しくいただいているが、世の中のこととして眺めるとおかしな世の中だと思う。
 
 余談になるが、確か大分県ではフグの肝も条例で禁じられていないと思う。
 その昔、別府温泉で正式に提供を受けていただいたことがある。
 同じように昔のことだが、民青新聞に別府の記事が載っていて、フグの肝も美味しいよと書かれていたのをひとり大笑いしながら読んだことを思い出す。
 石川県にはフグの真子の糠漬けがある。
 これも正式な商品と、地元の人の手作りのものをいただいたことがある。
 繰り返すが、だいたい、魚の真子、白子、肝で不味いものはほとんどない。
 ただし、有毒のものは原則食べない方がよい。
 このブログ記事で責任は負いかねる。 

2016年9月14日水曜日

律義なエナガ

   律義な人が好きである。 
 器用な人、賢い人、能力のある人・・・、いろんな人がいるが私は律義な人が好きである。
 鳥でいうと、エナガはそんな律義な鳥だと思う。

 ほぼ毎日、同じ時刻に我が家を集団で訪問してくれる。(少し観察していると、鳥にしても虫にしても彼らの道があり、その道をルーチンワークしている)
 我が家の場合は、それが夕刻の庭の水やりの時間である。

   シーッ シーッ シーッ という声がすると、メジロやシジュウカラなども混ぜて集団でやって来る。
 「カラ類の混群」と言われている。
 ただ、訪問はしてくれてもせわしなく動き回り、あっという間に次の目的地へ移動する。

 野鳥の中では最小の部類に属する、見た目も可愛い鳥で、一瞬の訪問に心は和む。

 いろんな野鳥の本には書いてはないが、私が発見したこの鳥の習性がある。
 それは、シャワー好きだということだ。

 ちょうど庭の水やりの時刻だと書いたが、私は横着をして2階のベランダから庭に水を撒く。

 そこで、ノズルをシャワーにすると、逃げるどころか喜んで飛び込んでくることを発見した。
 そして、木の葉に残った水滴で水浴びよろしく羽繕いをする。
 明らかに私が恣意的に撒いていることを知りながら喜んでいる。
 ちょっとしたコミュニケーションが成立している・・・と私は信じている。

 写真では落ち着いても見えるが、一瞬たりとも体を止めることをしない、せわしない鳥である。
 名前は「柄長」で手水舎によくある柄長柄杓(えながひしゃく)に似ているから…一番上の写真のとおり尾が長い。

2016年9月13日火曜日

松虫

   今は亡き義父は謡曲をたしなんでいた。
 全く教えてもらうことなく別れたことが残念だが、こういうことは世の常といえば世の常のことだろう。

 なので私は謡曲の門外漢なのだが、謡曲の中に「松虫」というのがあることは知っていた。
 それは大阪市阿倍野区に、よく利用していた阪堺電車(チンチン電車)に「松虫」という停留所があったからで、その少し意味ありげで美しい名前に興味を覚えていたからだった。

 謡曲「松虫」の物語の地がそこであり、テーマが友情だというぐらいの浅い理解だが、例によって亡霊が出てきて昔を語り終え、〽虫の音ばかりや残るらん、虫の音ばかりや残るらん、と閉じていく。

   そこで虫の音だが、近頃は街中をアオマツムシのリーリーリーという甲高い声が圧倒している。
 その迫力は「秋の虫の音」の範疇をはるかに超えている。
 外来種だからというようなヘイトスピーチに似た偏見でいうのではないが好きでない。

 そして、アオマツムシ、エンマコオロギ、ツヅレサセコオロギという三大主流派の奥の方から、チンチロリンという本来のマツムシの声を聞くと何故かホッとする。
 偏狭な国粋主義ではないが、本来のマツムシの声には情趣がある。

   「謡曲の時代の松虫は鈴虫のことである」という真っ当な指摘があるが、今日のところは無視する。

 繰り返すが、アオマツムシが好きでないのは彼の国籍や原産地ゆえのことではない。
 ヘイトスピーチは許さない!の写真は甲子園のオーロラビジョン。

2016年9月12日月曜日

東西が縦

たしかガウランドが書いたもの
   日本書紀成務天皇五年秋九月(実在を仮定すれば四世紀半ば)に「東西を以て日縦(ひのたたし)と為し、南北を日横(ひのよこし)と為す」と諸国に令(のりこと)したとの記述があるのを知ってから、ずーっと頭の中が整理できずにモヤモヤしたまま月日が経った。

 成務天皇の実在性は各種議論されているが、伝成務天皇陵はしばしば近くの道路からその森を眺めている。
 問題はそういう史実のことではなく、日本書紀という公式文書にこのように書かれているという事実である。
 つまり、そこでは「東西を縦」と言っている。

 そもそも勉強不足の私であるから、縦と横の定義が十分理解できていない。
 広辞苑では、①上から下、②前から後ろ、③南北の方向とある。
 新潮日本語漢字辞典では「動物では頭と尾を結ぶ線」というのもある。
 正確かどうか知らないが「山脈の脊梁」も縦ではないのだろうか。とすると「日本列島を台風が縦断した」というのも「それは横断ではないのか」と感じるときもある。
 東西の道路を南北に横切る横断歩道も「前から後ろ」だからだろうか。「縦断歩道では」という疑問を聞いたことがないのはどうしてだろう。

 元に戻って、東西南北である。
 どこを見ても文献上は南北が縦である。
 私がしばしば「日本文化の基層」だと指摘してきた道教も、北極星を頂点にした「南北縦論」で、東アジア共通の儒教文化でも基本的には変わらない。故に天子は南面している。
 だとすると、日本書紀の「東西縦論」は例外中の例外と言わなければならないが、そんな面白い記述が日本書紀にどうしてあるのだろうと、長い間モヤモヤしていた。


   さて、ウィリアム・ガウランド(ゴーランド)(1842-1922)は、明治政府に招聘されて大阪造幣局の技師となり、在日中に登山をして「日本アルプス」の命名者となったが、それ以上に凄いことは、何百基という古墳を調査して測量図や写真を残し、日本考古学の父とまで言われたことである。

 イギリスに帰国後はストーンヘイジの研究と修復でさらに有名になったが、ストーンヘイジが太陽信仰の遺跡だと考えついたのは彼の伊勢の二見ヶ浦での記憶が基だと言われている。
 夫婦岩の間から登ってくる日の出を拝む信仰だ。
 この話を奈良文化財研究所の講演で聞いたとき、私はハッと目が覚めた。
 成務天皇記は太陽信仰だったんだ(そんな常識的なことを今更・・と笑わないでほしい)。

 その太陽信仰(崇拝)だが、中国大陸由来の北極星の文化、天子は南面する文化以前の日本の文化が太陽信仰を中心とする自然崇拝、シャーマニズムであったことは疑いない。
 大神(おおみわ)神社のように、西から東の三輪山を向いて拝んだり、纏向遺跡の建物が東西一直線に建てられていたりと、いざ例示を探せば枚挙にはいとまがない。東西を向いた古い神社はいくらもある。

 冷静に考えると農耕の民が太陽を崇拝し、日の出の方角を大事にするのは理屈抜きで理解できる。
 朝、親の世代が日の出を拝む習慣は、少し前までは街で普通に見かけていた。
 同様に、江南のミャオ族の神域〈カー・ニン〉も東西を重視していると読んだことがある。
 だから日本書紀は、「東西を縦と為」したのだ。
 
 なので、魏志の著者であるエリートの陳寿は、偉大な天帝の思想を知らない倭人に呆れ果てて、「(卑弥呼は)鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす」と苦々しく書いたのだろう。

 長い間、日本書紀記述の「東アジア共通の北極星文化」でない文化が不思議であったが、素直に考えれば東西を大事にする文化は前述のとおりよく解る。
 ギリシャ神話に対比するまでもなく、日本神話には星がほとんど登場しない。世界中で、アジアの中でも特異だと言われている。
 こういう日本文化の特異性はもう少し検討してみても面白そうだ。
 やっぱりカギは江南の稲作文化だろう。
 虹が東の空にかかっていた。

2016年9月11日日曜日

蘘荷不知以爲滋味

   「蘘荷(じょうか)有るも、以て滋味と為すを知らず」(魏志倭人伝)の「蘘荷」とは茗荷のことらしい。
 著者の陳寿は「倭には茗荷があるが倭人は茗荷の美味さを知らない」と3世紀に書いている。
 茗荷大好き人間としては少し残念な記述である。
 しかし、そんなことわざわざ書きますか・・・
 
 不思議なことは、古くからインドや中国で生えていて、仏陀に物忘れのひどい弟子がいたので「茗荷を食べると物忘れをする」という諺まであるのに、野菜として食べているのは、・・さらには栽培までしているのは日本だけだという。

 補足すると、茗荷を野菜として食べているのは正確には日本、韓国、台湾の一部だけらしい。(薬草は除く)
 なので、その言葉はそのまま陳寿さんにお返してあげたいと思っている。
 茗荷の滋味を知り伝えてきたのは貴殿が軽蔑した倭人の後裔であるぞよ。

   5月8日に茗荷竹を初めて食べて感動したことを書いた。
 茗荷竹の季語は春。・・・因みに茗荷の子は夏、茗荷の花は秋という。
 その秋に、またまた「茗荷竹の甘酢漬け」を手に入れた。
 妻がコープの通販で見つけたので申し込んでおいてくれたもの。
 その味は、甘酢好きの私としては全く文句がなかった。
 娘の感想は、「ラッキョウみたいや」で、今一つという顔をした。

 5月8日の記事に土佐のバラやんがコメントをくれて、産地のJAでは「茗荷を食べて都合の悪いことを忘れましょう!」なる催し物があると・・・。
 河島英五の「酒と泪と男と女」ではないが、近頃は忘れてしまいたいことが多過ぎる。
 しかし、日々の現実を忘れて選挙時の美辞麗句に惑わされたのでは後悔しても遅すぎる。
 なので、茗荷を食べつつ日々の現実を忘れないようにブログを書いている。